日露戦争にて、1904年秋頃に髙梁畑の側で、殺害されて仰向けになった日本軍兵士の死体が散在した。その死体の側に、ライフル銃が放置された。その写真は、アメリカ人のバートン・ホームズ(Holmes Burton)が日本軍の第3軍に従軍して撮影した。第三軍は、日露戦争にて1904(明治37)年5月29日に編成され、司令官は乃木希典である。日露戦争後の1906年(明治39年)1月26日に解散した。司令官は、第1回旅順総攻撃を8月19日から、第2回旅順総攻撃を9月19日から、第3回旅順総攻撃を11月26日から指令した。ホームズの日露戦争の写真が、日本の職人の筆に助けられてひときわ異彩を放った。日露戦争の撮影時期は1904(明治37)年秋から1905年の初めである。
写真がすべて人工着色された点は貴重である。ガラス乾板に筆で精細に彩色するもので、作業はすべて日本人の職人が行った。ホームズは技術に惚れこみ、のちに世界各地で撮った写真を日本に送り、着色させた。当時も従軍写真家・画家、従軍記者は内外を問わず決して少くはなかった。日本陸軍陸地測量部による膨大な記録も残っている。写真に色をつける器用な手先は、日本人に求められた。明治初期のすぐれた写真技術者である下岡蓮杖は、外国人の土産用に絵蒔絵の装釘をほどこした日本風俗の四ツ切大着色写真帳を売り出して、遠く欧米の骨董屋に並んでいた。その弟子の鵜飼玉川はコロジオン法のガラスの膜面に着色している。上野彦馬は土産用に水彩着色のミニュアチュール風な風物写真を輸出している。
ホームズが初めて日本を訪れたのは1892年(明治25年)の秋22歳のときであった。以後、1932年まで10回にわたり日本の土を踏む。当時として驚くほど広範囲に世界各地を撮影した。写真が色彩を求めたのは自然の成行きだった。スライドで見せたらどんなに人が驚くかとホームズが考えた。軍装に詳しい方がみると、その着色上いくつかのミスがある。フランス式、イギリス式、ドイツ式と幾多の曲折を経てきた軍装に関して、職人も通暁してなかったろう。多年の保存で生じたキズやかびの跡さえも新鮮にみえる。日本軍の写真とロシア軍の写真が、どうして一緒に撮れたのかという疑問も湧く。他の人の写真が入っているのは、ホームズの写真が報道を旨としないためである。世界の各地を歩きまわり、成果をトラベローグという名で全米で講演した。約百万フィートの映画も撮影している。写真家でなく、旅行家とした表現方法が成り立ったのも、やはり良き時代であろう。日本でも、明治来、旅行案内の幻灯が町々を回って、写真はマジック仕立ての旅へのいざないとなった。
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