特攻隊員の若者が、知覧特攻基地から戦友の遺骨とともに、アメリカ軍の軍艦に体当たりして、自爆するために戦闘機に飛び去った。遺骨袋を、アメリカ軍の艦船を自爆攻撃で瞬時に沈没する轟沈と記した手拭いで縛った。
1945年3月25日に、アメリカ軍はついに沖縄戦の緒戦である慶良間列島に上陸した。日本軍大本営は局面を打開するために、フィリピンのレイテ沖作戦に1944年10月21日から挙行した特別攻撃隊(特攻)を激化を強行した。まず沖縄列島に最も近距離で最南端である鹿児島の大隅半島にあった知覧飛行場が特攻本部に選定された。沖縄戦の最前線の陸軍特攻基地となり、日本各地から特攻隊員が結集した。約15歳から約22歳までの青年で構成された。その他に少年飛行兵や学徒出身の特別操縦見習士官も参戦した。
神風戦闘機の胴体の下に、約250kgから約500kgの爆弾を装着した。沖縄までの片道だけの燃料で、知覧基地を離陸して、その後に特攻すれば二度と復帰しなかった。陸軍の最後の知覧特攻基地から出撃した特攻隊員は、薩摩半島の最南端に位置する薩摩富士と呼称する約922mの開聞岳を展望して飛び去った。知覧基地から沖縄の戦場まで、約650kmを約120分から約140分で到達した。1945年8月13日まで特攻が厳命された。
知覧基地から特攻した戦死者は、約436人に及んだ。その他に、知覧基地には、特攻本部が設置された。知覧基地から、各地の飛行場に特攻の出撃命令が下った。万世から約121人、都城から約83人、台湾から約134人、熊本から約127人、鹿屋から約12人、太刀洗から約14人などの特攻隊員が、知覧基地からの命令で自死して玉砕した。
特攻の戦果は不詳である。アメリカ軍側の損害は、軍艦(航空母艦・巡洋艦含)は約32隻沈没、輸送船は約75隻沈没、艦船の損傷は約223隻、戦死者は約12,260人、戦傷者は約33,769人に及んだ(クロンステル『空戦』)。レイテ沖作戦から挙行した特攻作戦において、海軍は約2,535人、陸軍は約1,844人が戦死した。特攻作戦に参戦した約3,461機体のうち、約132機体が命中して、約122機体が至近弾で爆破した(『知覧特別攻撃隊』, ジャプラン,1989年4月25日)。
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