ナチス・ドイツによって殺害された労働者と知識人のリストを抜粋した。1933年3月3日から6月末までに、ナチス・ドイツによって執行された約500人以上の殺人に関する明確な情報源がある。その情報源は、ドイツの公式発表、否定されない報道、認証された目撃者の報告に基づく。殺人の総数のほんの一部であり、大部分は、ナチス・ドイツによる厳しい検閲から、親族、友人、目撃者に対する脅迫によって隠蔽された。
ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下の、1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されて、1945年5月まで全体主義国家と化した。1939年9月1日にポーランド侵攻がイギリス・フランスの宣戦を招き、第二次世界大戦が勃発した。ソ連赤軍によるベルリンの戦いを目前にヒトラーが1945年4月30日に自殺した。1945年5月7日に連合国軍に敗北して中央政府の不在が宣言され、解体されて滅亡した。
既婚で2人の子供がいて働く女性のグレーテ・メッシング(Grete Messing)は、1933年3月6日の午後6時頃に、バイエルン州セルブのゾンマーミュール通りに、家を出て買物に町の方へ行った。自宅から約40mほど離れた地点で、同じ通りに住む国家社会主義ドイツ労働者(ナチ)党員の男性ラガーに出会った。彼は彼女の前に出て、「ハイル・ヒトラー!」と挑発した。メッシング夫人は押返して復帰し、彼を追い越そうとした。ラガーは彼女を呼び止め「拳銃で、お前を撃ち殺すぞ!」と脅した。彼女は冷静に「撃ってしまえ!」と答えた。
ラガーは拳銃を彼女の喉元に当て、引き金を引いた。メッシング夫人は致命傷を負った。彼女の夫は彼女を自宅まで運び出血多量で死んだ。犯人のラガーはナチの宿屋に行き酒を飲んだ後に、特別警察に出頭して、ラガーは逮捕された。約10日後に、ラガーは警察署から釈放された。セルブの駅で儀仗兵がラガーを出迎えた。ラガーはナチス突撃隊から追放されなかった。一方、殺害された女性の夫と19歳の息子は、バイロイトの刑務所に 保護拘束された。警察と特別警察は、ゼルブの労働者階級の家々で繰り返し捜索を行って、犯人でも殺人犯でもなく、殺人の証拠となる写真を探して検閲した。
ハインツ・べスラー(Heinz Bässler)は、1933年4月4日にデュッセルドルフにて、ナチから逃走中に射殺された。射殺されたウィルヘルム・ドリュース社のベルリンの労働者のハインツが発見された (ベルリン・ターゲブラット新聞)。ベスラーは元ナチス党員で、突撃隊のリーダーであった。1930年12月頃にナチスの真実を理解し始めて、ナチを離党し、後に共産党に入党した。
4月4日朝4時頃に、7人の保護隊員と2人の刑事によって、ハインツは服を着て連行された。彼らは午前3時には通りを封鎖し、戒厳令下でハインツを拳銃で連行して、通りで射殺した。ハインツの心臓に3発、腕に1発、首に1発、骨盤に1発、その他にも2発、全部で8発撃たれた。死体は放置され、農民たちが死体を見つけた。棺桶の上で、残酷に扱われたハインツがいた。新聞には、ハインツは逃走して射撃された、弾薬2つ発見されたなど嘘の偽ニュースが書かれた。戦争犯罪に圧倒されて、何も信じられず、卑劣で残忍を執行した。ハインツの葬儀は4月7日午後1時半から、南墓地に聖職者によって埋葬された。
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