アフガニスタンのペシャワールのヘズミ・イスラミ軍事病院にて、13歳のアフガニスタン・ゲリラの少年兵であるモハメド・ホジャナビは、地雷で切断された右膝以下の断端の傷口を処置された。1980年7月下旬以降に、アフガニスタン人の少年兵は、右下腿が吹き飛んで、ザクロのように深部組織が赤く裂けて、白骨がむき出しになり重態となった。オキシドールにて、傷口を消毒して染みると、激痛が走って、目に涙をためて歯を食いしばって疼痛に耐えていた。
ホジャナビは、ジャララバードに近いナンガルハール州のソルクロット基地から夜間出撃した途上にて、ソ連軍が山岳地帯の山道に散布した小型爆弾を踏んで、爆発して右下腿が吹き飛び切断された。ソ連軍の接触爆弾は空中地雷と呼称される人員殺傷用の小型爆弾であり、少年兵はそれに接触して爆発した。アフガニスタン人少年兵のホジャナビは、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に、ゲリラ戦で対抗した。ホジャビは戦場で負傷して、ロバの背に載せられ移送されて、軍事病院に収容されて、切断の処置を受けた。
アフガニスタンの少年ゲリラの多くは、肉親がソ連とアフガニスタンとの戦闘で殺害されてイスラム教で殉教したと思い込んだ。イスラム教の聖戦で戦死した肉親の遺志を、少年兵を志願して引き継いだ。アフガニスタンの部族では、復讐する掟であるバダルは、イスラム教で重大なる義務となった。復讐を果たすまでは、殉教の義務から解放されない。復讐する義務は、肉親の家族から一族までに世代間にまで及んだ。バダルにより、聖戦として生か死かの二者択一に陥る。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」の戒律の文化が潜伏した。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻は1979年12月25日に始まり、1989年5月15日から撤退を始めて1989年2月15日の完全撤退まで続いた。アフガニスタン政府はムジャヒディンと呼称される反対派に対抗できず、ソ連軍の援助を求めた。ソ連軍の参戦により、地元住民に潜伏したムジャヒディーンに対して大規模な軍事侵攻した。大量の破壊と戦傷により、地元アフガニスタン人住民がムジャヒディーンに味方した。駐留するソ連軍に、全国的な抵抗から紛争に及んだ。ソ連軍の戦死者は約1万5千人、戦傷者は約3万5千人である。アフガニスタンの民間人は、約200万人が犠牲になった。
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