地獄の第2次チェチェン紛争は1999年秋から勃発した。2000年2月に約4000人のチェチェン人兵士は降伏したグロズヌイから撤退した。アンカラ周辺の村がロシア軍により爆撃を受けて、チェチェン人兵士や住民の死体が散在した。
チェチェンのイスラム系武装勢力のバサーエフが1999年8月7日にダゲスタン侵攻した。直ちにロシアはダゲスタン解放を名目に介入して、攻撃を加えてバサーエフは撤退した。数日後にはロシアの都市で相次いでアパートの爆破のテロ事件が発生した。ロシア市民がテロの恐怖に怯えると、エリツィン大統領はソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチンを首相に就任させた。就任当初からプーチンは対チェチェン強硬策を進め、ロシア市民の圧倒的な支持を得た。1999年9月23日にロシア軍はチェチェンの首都グロズヌイへの爆撃を開始して、第2次チェチェン紛争が勃発した。
ロシア軍の侵攻を受けて、マスハドフ大統領とバサーエフも和解し、対ロシア戦闘で共闘して、チェチェン独立派は再び結束した。ロシア側は、12月31日にエリツィンが辞任してプーチンが大統領に任命された。第2次チェチェン紛争により、プーチン大統領の権力委譲がロシア国民に支持された。
第2次チェチェン紛争は、1999年から2009年までの10年間も続いた。第1次チェチェン紛争と同じく、チェチェン人兵士は正面からの攻撃を避け、山岳地帯でゲリラ戦を展開した。ロシア軍は、チェチェン全土を占領するために徹底的な掃討作戦を実施した。テロリストを逃避したと疑われる村を包囲し、住民を尋問により選別して、テロリストと疑われる者や無差別にも収容所に送還された。家族を取り返すために賄賂がない場合は殺害される場合も多かった。ロシア兵による虐待・婦女暴行・殺害・虐殺も相次いで起こった。
ロシア側の徹底的な情報封鎖もあり、第2次チェチェン紛争は全体の死者数も不詳で、約20万人以上とも想定された。チェチェン側はロシア本国へのテロ事件で報復を行った。2002年に人質129名が死亡したモスクワ劇場占拠事件が勃発した。第2次チェチェン紛争は2009年に終結宣言が出されたが、チェチェン人のテロ事件は続いて、未だに紛争は終わっていない。最も悲劇なのは一部の人間の搾取と欲望の犠牲となるチェチェン市民の人々であった。
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