沖縄戦にて、アメリカ軍は多数の戦傷して重篤の海兵隊員らを病院船に運び入れて護送した。アメリカ軍側の死者・行方不明者は20,195人、戦傷者は55,162人、イギリス軍は死者85人で、アメリカ軍の戦闘外傷病者は26,211人であった。沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人で、日本側の負傷者の総数は不明である。
沖縄戦は1945年3月26日の緒戦から、沖縄本島で行われた主戦は4月2日に勃発して、日本軍が6月23日に壊滅した。アメリカ軍は日本本土に侵略するために、マリアナ基地から航空基地と補給基地の移転であった。日本軍は、大本営が航空機が突撃体当たりする特別攻撃隊により連合国軍に大打撃を与えて、『一撃講和』を狙った。沖縄の軍司令部は想定される本土決戦に対する時間稼ぎの「捨石作戦」の持久戦を覚悟した。太平洋諸島で失敗した水際の防御を避けて、内陸部に誘い込み持久戦に持ち込んだ。首里の北方で最も激戦となった。大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を繰り返して、戦艦「大和」などの日本海軍の残存艦隊による沖縄特攻も行われた。1945年5月末には日本軍の首里司令部は陥落して、日本軍は南部に撤退した。6月23日には司令官らが自決して、組織的戦闘は終結した。連合軍は、その後も掃討戦は続けて、7月2日に沖縄戦終了を宣言して、最終的には戦後の9月7日に沖縄守備軍の降伏調印式が行われた。
両陣営とも大兵力が投入され、連合国軍のアメリカ軍側の最高指揮官も日本陸軍の攻撃で戦死した。フィリピンや硫黄島の戦いだけでなく、沖縄は太平洋戦争の最激戦地となった。使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が原型を留めない激しい艦砲射撃が行われた。残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続いている。1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件発掘された。
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