広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。その周囲に、第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合していた。その遠方には爆心地から東方約1.2kmに東警察署が白い建物が残存した。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、東警察署には翌日の8月7日には、広島市の防衛本部が設置された。2日後の8月8日には、東警察署に8月7日に設置された臨時広島県庁に、広島市民が殺到していた。広島県庁は全壊して、出先先などを含めて犠牲者は最終的に約1,131人に上った。焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とした。
中国新聞は1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)に位置した。中国新聞社の本社ビルは全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを焼失した。被爆直後に,中国新聞社の建物は外壁のみをとどめ、輪転機を含めた設備機材も全滅して焼失した。輪転機一台と付属資材を広島市内東の温品に疎開させ、業務再開の重要な手段となった。社員の約3分の1にあたる約114人が犠牲になった。8月6日夕方には、他新聞社の支援による代行印刷を決定した。当日は電話も電信も不通になった。広島市宇品にある陸軍船舶司令部にて通信網を使用して、再発行を3日後の8月9日に再開できた。
広島市宇品の日本陸軍船舶司令部は、原子爆弾が投下された8月6日午前8時15分から約35分後の午前8時50分頃に、暁部隊の少年兵の全隊員を被災地に向かわせて、救援活動を始めるように命令した。爆心地から約4kmの宇品の暁部隊船舶隊が、黒く焼け焦げ、水ぶくれ、焼け縮み、水膨れの死体を、両端の道片に並べた。灼熱で死体にウジがわき、焼けあとの臭いと異様な悪臭になった。無惨にも、暁部隊の少年兵から多くの原爆二次被爆による原爆病の犠牲者が発症した。
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