アメリカ先住民族のインディアンの投じた多数の弓矢が刺さって、1867年にアメリカ陸軍の軍曹が殺害された。インディアンは軍曹の死体を、腹部から両方大腿を切開した。死者の死体の切開は、インディアンの一般的な習慣であった。さらに死体の頭皮を剥がされたり、しばしば死体をバラバラにした。頭皮や指などの体の一部は戦利品として活用した。ラコタ族の習慣では、殺害した兵士を切り刻み、死体は下着姿か裸にされ、頭皮を剥がされ、手足を切り落とし、バラバラにされ、顔を潰され、内臓をえぐり取られた。
アメリカ西部にて、グラタン虐殺が、1854年8月19日にネブラスカ準州(ワイオミング州)のララミー砦付近で勃発した。グラタン虐殺は、インディアンのラコタ族(西スー族)とアメリカ軍と、最初の公的な大規模軍事衝突が発生した。ラコタ族によって、アメリカ軍のジョン・ローレンス・グラタン(John Lawrence Grattan)少尉と約30人の部隊が虐殺された。アメリカ中西部の大平原では、数十年間にわたる血なまぐさいインディアン戦争が勃発した。
1854年8月18日にモルモン教徒から分離した牛が、食料不足したインディアンらに屠殺され調理された。ララミー砦の守備隊に牛の損失を訴えた。8月19日にジョン・ローレンス・グラタン少尉と約20人の兵士が、インデアンのラコタ族・オグララ族・シチャング族などの領地に向かった。グラタン部隊とインデアン部族の緊張が高まり、グラタン部隊の銃撃によりラコタ族の1人が地面に倒れて、さらにグラタン少尉は一斉射撃を命じた。インデアンから逆襲され矢の雨がアメリカ軍部隊に注いだ。グラタン少尉と数人の兵士が殺害され地面に倒れ込んだ。アメリカ人兵士は四方八方に逃走した。インディアンは2人と馬を切りつけて殺害した。荷車にしがみついた兵士は矢に刺さり地面に落下した。乗馬したシチャング族は、追いつけた馬車から兵士を引き出し殺害した。
1840年代から、アメリカ西部にヨーロッパ系移民の人数が急増し始めた。オレゴン、ユタ、カリフォルニア、太平洋岸に向かった。最も利用された移民ルートが、オレゴン・トレイルの陸路(Oregon Trail)であった。ミズーリ川沿いのインディペンデンスから出発し、大平原を横断し、低地のサザンパスを通り、ロッキー山脈を越えた。フォート・ホールの丘陵地帯の大草原を越え、スネーク川を渡り、通過困難なブルーマウンテンを抜けて、最後にユティラ川を渡って、オレゴン州北西部にあるコロンビアの町に向かった。1849年にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こり、オレゴン・トレイルの移民数が急増し、年間約3万人近くから、1年後には約50,000人、1855年には約30万人の移民が通過した。1849年にアメリカ政府が買い取って、ララミー砦を軍の駐屯地とした。1851年に西部への移民の安全な通行を金銭保証するフォート・ララミー条約を、アメリカ政府はインディアン各民族と締結した。
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