1960年のコンゴの独立とベルギーの過剰な撤退に伴って、コンゴで州間戦争により、白人は虐殺に巻き込まれた。1960年6月30日に独立した旧ベルギー領コンゴが、冷戦の舞台となった。1960年7月5日に、コンゴ共和国軍兵士たちは、ティスヴィル基地でベルギー系白人指揮官に対して反乱を起こた。反乱はすぐに他の基地にも拡大して、コンゴ全域で暴力事件が発生した。数千人のベルギー人らが逃げ出し、白人に対する残虐な行為が勃発して、世界中に公開された。1950年代後半から1970年代半ばにサハラ砂漠以南のアフリカに脱植民地化が勃発した。新たに独立した非同盟諸国をめぐり、米ソの代理の冷戦が何度も勃発した。
独立までの数ヶ月の間に、コンゴ国民は大統領ジョセフ・カサブブ、首相パトリス・ルムンバを選出した。アメリカは、コンゴ共和国が親欧米政府を期待したが、新しく独立したコンゴ共和国は混乱に陥った。先住民のコンゴ国民軍(CNA)を支配できないベルギーは、カサブブやルムンバの許可を得ずに軍隊を投入した。コンゴ政府は、国連に兵力提供を直訴し、ベルギー軍の撤収を要求した。7月13日に、国際連合は介入部隊のコンゴ民主共和国機構(ONUC)の創設を承認して、ベルギー軍の撤退を決議した。その2日前には、カタンガ州が、8月には南カサイ州もコンゴ共和国から独立を宣言した。
アメリカは国連を支持したが、コンゴ危機からソ連の介入を懸念して、危険な外交を模索した。7月下旬に、ルムンバをワシントンに招き、穏健な影響を期待した。CIAの報告では、コンゴ共和国を典型的な共産主義の買収と表現した。ソ連圏の技術者や物資の到着から、国家安全保障チームは、ルムンバの排除を確信した。ルムンバを失脚するアメリカ外交が活発化して、ルムンバを暗殺計画も練らした。9月5日に、カサブブはルムンバを政権から解任した。ルムンバは勅令を無視して、カサブブを罷免した。コンゴ内外のルムンバの支持者は激怒して、ルムンバの復職を支持した。内戦を避けるため、コンゴ国民軍(CNA)のジョセフ・モブツ大佐は、9月14日にクーデターを起こしてソ連の国外退去を命じた。モブツは親欧米政権を支持し、軍部の繋がりから、9月18日にモブツは暗殺計画を知らされた。暗殺計画の責任者としてルムンバは逮捕され、最終的に1961年1月17日に死刑が執行された。
その後4年間、コンゴ共和国が次々と首相が交代する中で、アメリカは親欧米派の候補者の票の買収や資金援助をした。モブツもまたコンゴ国民軍(CNA)の忠誠心を高めて、組織内の反乱を回避する資金を得た。国連軍撤退後の不安定な状況を懸念したケネディ政権は、コンゴ共和国との二国間軍事協定を結び、1963年5月31日にモブツがケネディ大統領と面会した。コンゴ共和国への支援は、ジョンソン政権も続けた。1964年8月4日にスタンリービル(キサンガニ)が反政府軍に陥落した。アメリカの軍事援助は劇的に増加した。国防省はコンゴ共和国軍は、近隣アフリカ諸国、ソ連圏、中国共産党の支援で強固になる反政府勢力に対抗した。アメリカはアフリカ統一機構(OAU)にも働きかけ、コンゴ共和国への支援を取り付けた。10月下旬にスタンレーヴィルの状況は悲惨となり、10月28日に反乱軍司令官は、その地域の全ての西洋人を軟禁した。反乱軍の支配下の他都市でも、相当数の人質が拘束された。11月下旬に人質救出作戦(ドラゴンルージュ作戦)は成功するも、ツォンベ首相はカサブブとモブツ双方から無能とみなされた。1965年10月にツォンベ首相は罷免されて、再び内戦の危機に瀕した。
モブツは1965年11月25日に再びクーデターを起こし、大統領と首相を解任し、コンゴ政府を掌握した。モブツは1990年代半ばまでコンゴ(1971年にザイールと改称)を支配した。定期的な反乱を起こるも、コンゴ共和国を支配した。モブツは、アフリカの共産主義侵攻に対抗する強固な同盟者と証明された。モブツはアメリカからの資金、物資、政治的支援を受け、サハラ以南のアフリカで地位を高めた。ジョンソン政権からレーガン政権まで、モブツ政権にしばしば便宜を図った。
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