比治山国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約2.8kmにあって、火災を免れた。被爆直後から負傷した多数の被爆者市民が避難した。広島県は、広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に布告した救護所13カ所の一つが比治山に指定された。教諭らも泊まり込んで救護を手伝った。火傷や負傷して被爆者は、広島市周辺の比治山国民学校に避難した。比治山国民学校の教室にいた児童約50人はガラス片などで負傷したが、命は無事であった。3年生以上の児童は、広島県佐伯郡津田村(現廿日市市)などへ集団疎開していた。
昭和二十(1945)年度日誌広島市比治山国民学校の日誌には、8月9日に「罹災患者依然多数呻吟ス」と記載された。原子爆弾の投下で未曾有の混乱に陥っていた。行政関係の文献である『広島県史』原爆資料編には、広島県の公式記録「第1号戦災記録 広島県」として、8月7日に県知事の救護所布告で13箇所の救護所開設が告示された。被爆して7日後には、救護所は自然発生的に増加して約53箇所に達した。
比治山国民学校には、8月8日午後4時から広島市社会課が主管した迷子を収容する孤児収容所も併設した。保護者の生死が不詳な児童の救護も開始した。8月9日には、孤児収容所モ漸時収容サレテ二十四名トナルと記述された。28歳の母親の手記にて「母を求めて泣き叫ぶ赤子」に「乳を含ませてやると」「やがてスヤスヤと眠り始めた」が、数日後に「死んでしまった」と極限下の保育が続いた。9月2日までに受け入れた迷子は計約91人(うち女児36人)に達した。そのうち約18人が親に、約14人が親族に引き取られた。約9人の児童は「強度ノ下痢症状ヲ起シ衰弱死亡ニ至レルモノナリ」と原爆症で死亡した。
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