第一次チェチェン戦争にて、首都グロズヌイの戦いにて、侵略したロシア軍が撤退した後に、チェチェン住民は墓地を1995年9月に掘り起こした。墓地に埋めてあった木箱の棺桶から、殺害されたチェチェン人の死体の白骨が目一杯に詰め込んでいた。それをグロズヌイのチェチェン住民の婦人が取り囲んで呆然と嘆き見守った。引き取り手のない死体は、後にグロズヌイ市郊外の集団墓地に集められ埋葬された。ロシア南部に位置するチェチェン共和国は、人口わずか150万人の小さなイスラム共和国であった。
第一次グロズヌイの戦いは、第一次チェチェン戦争の初期にエリチン大統領のロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイに侵攻して、その後に一時的に征服した。1994年12月22日から1995年3月6日にかけてロシア軍の攻撃により、グロズヌイを軍事的に占領した。最終的にロシア軍に奪取して、ドゥダエフ将軍がチェチェン共和国の初代大統領となった。最初の攻撃でロシア軍にかなりの死傷者の犠牲が出た。特に1994年12月31日の攻撃で約4,000人のロシア軍兵士が戦死した。ロシア軍が首都グロズヌイを占領できるまで、さらに2ヶ月の激しい戦闘を伴った。チェチェン民間人に甚大な破壊と犠牲をもたらして、第二次世界大戦後のヨーロッパで最も激しい空爆が行われた。グロズヌイの戦いでは、ロシア軍は、1,426人以上の戦死、約500人が行方不明、約4,670人が戦傷して、チェチェン軍の犠牲者数は不詳である。約5,000人の子供を含む約2,700人以上の民間人が殺害された。
近隣の山々からチェチェンゲリラ部隊は、1996年3月に首都グロズヌイへ攻撃した。ゲリラと襲撃によりロシア軍に損害と戦意喪失を与えて、ロシア軍の撤退を求めた。1996年8月に、約3,000人の武装勢力による奇襲攻撃で、チェチェン分離派は首都グロズヌイを奪還して、ロシア軍部隊を撃退した。最終的に第一次チェチェン戦争は停戦となり、グロズヌイは再びチェチェン分離主義者の手中に収まった。1997年に、分離主義者のイクケリア共和国のアスラン・マスカドフ大統領により、名称がジョハルに変更された。残存していたロシア人少数民族のほとんどが避難した。
第二次チェチェン戦争の1999年8月26日に勃発後に、グロズヌイは再び戦闘の中心地となり、さらに数千人の死者を出した。1999年10月25日のプーチン(1999年8月9日首相、2000年5月7日大統領)のロシア軍によるグロズヌイ包囲にて、5発のSS-21弾道ミサイルを、混雑した中央バザールと産科病棟に向けて発射し、約140人以上が死亡、数百人が負傷した。大規模な砲撃では、ロシア軍の砲弾のほとんどが建物の上層階に向けられ、大規模なインフラ破壊を引き起こした。2000年2月初旬に、ロシア軍は包囲したチェチェン武装勢力を安全な人道回廊に誘き出しては、最終的にグロズヌイを奪取した。避難計画の1日前に、ロシア軍は都市とアルハンカラ村の間の道を採掘し、最も火力を集中させて、チェチェン分離主義者の指導者と数百人の武装集団が死傷した。ロシア軍は徐々に空っぽの街に入り、2月6日にはグロズヌイの中心部にロシア国旗を掲げた。多くの建物、街全体が計画的に破壊された。1ヵ月後に、住民の帰還を許可する安全宣言が出しても、破壊をしばらく続けた。プーチンは、クレムリン寄りのカディロフを擁立して領土の支配を強化した。2004年に暗殺され、現在は息子のラムザン・カディロフがチェチェン共和国を支配している。
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