1941年にクロアチアの住宅の中に横たわる虐殺された家族全員の死体が散乱した。テロリストであるクロアチア人のウスタシャ(Ustaše: 蜂起する者)民兵が、セルビア人の家族を探索して自宅を襲撃して全員を虐殺した。その他にユダヤ人やジプシーも標的にした。ウスタシャは、徴兵年齢の男性だけでなく、特に無力な老人、女性、子供たちに対しても虐待と虐殺した。村全体が破壊され、セルビア人の犠牲者を切り刻むために使用された肉切り包丁、フック、斧なども使用された。
ウスタシャは、1930年に設立されたクロアチアの超国家主義者、テロリスト、革命運動で、第2次世界大戦中は極めて活発に活動し、1945年に解散した。彼らは、何十万人ものセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、反ファシスト、反体制派のクロアチア人とボスニア人を強制送還、強制移住、拷問、殺害した。彼らは猛烈な民族主義者で、ローマ・カトリック教徒であり、異質なものは誰でも迫害した。ナチスと違ったのは、ローマ・カトリックへの改宗を強制したり、国外追放や死を予告した。ウシュタシェは、正統派キリスト教とキリスト教を正しい宗教と考えた。多くのカトリック大司教らは、暴力に直接参加しなくとも、ウスタシャを賛美して、クロアチアの繁栄を確保する非情な措置に同意した。
第2次世界大戦前にはテロ組織として宣言したが、1941年4月6日からの枢軸国軍のバルカン侵攻に伴い、ウスタシャは独立クロアチアとしてユーゴスラビアの大部分を支配するナチス・ドイツ傀儡国家となった。ウスタシャは占領軍であるドイツ軍やイタリア軍に進んで協力した。ナチスやイタリアのファシストと協力して、ユダヤ人、セルビア人(正統派キリスト教徒)、ユーゴスラビアのパルチザン、ロマなど、反体制派のグループを迫害した。1941年4月17日の国民と国家の保護法により、大量虐殺が正当化された。ウスタシャは、ナチスの幹部から野蛮とされ、特にウシュタシェは管理する収容所や虐殺で、残虐性と殺人欲に倒錯した。ウスタシェによって約30万人のセルビア人、約3万人のユダヤ人、約29,000人のジプシーをして、約30万人近くを国外追放して、約20万人が強制的に改宗させられた。
大量虐殺は、バルカンのアウシュビッツと悪名の高いヤセノヴァッツ強制収容所で発生した。これは、ザグレブの南にある5つの収容所で、バルカン半島最大の絶滅収容所であった。この地域では最も悪名高い強制収容所であった。いくつかの収容所や虐殺は、司祭が指揮していた。ヤセノヴァツ強制収容所は、食料はほとんどなく、汚いバラックには害虫や排泄物があり、辺りには腐敗した死体が散乱した。囚人たちは死体を捨てていたサヴァ川から飲水させられた。ウスタシャは、第2次世界大戦末期の1945年5月9日にオーストリア国境近くでパルチザンと戦闘した。降伏したウスタシャ約40,000人を、ユーゴスラビア人民解放軍のパルティザンが銃殺して死体を溝に捨てた。
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