広島原子爆弾の被害の大きかった袋町国民学校の救護所は、残存した西校舎の設備が整わず階段下に治療室を設置した。翌日から医師約2人、看護師約2人の体制で、火傷、感染症、出産などの患者約350人に対応した。その後は被爆者が殺到した。教室は病室として使われ、毎日多くの人が原爆病で死亡した。運動場は仮設の火葬場になった。1945年10月初旬には、窓ガラスもない教室の中で被爆者の外来治療が実施されていた。1階は治療所と県医療団事務所、2階が県衛生課、3階が医薬品倉庫として使われた。袋町国民学校は、1946年春まで救護所として使用された。
爆心地から約460mにある袋町国民学校は、広島原子爆弾の炸裂によって、甚大な被害を受けた。本川国民学校に次いで2番目に爆心地に近い学校であった。生徒数が約1,600人にも達していた学童は、原子爆弾投下時には、集団疎開や田舎の親戚や知人の家に避難していた児童は助かった。しかし、炸裂時に国民学校はいた約160人以上もの児童と約16人の教師は、ほぼ全員が即死した。奇跡的に炸裂時に地下室にいた3人の生徒だけが生き残った。唯一原型をとどめていた頑丈な鉄筋コンクリート造の西校舎を除いて、木造建築物は爆風と火災ですべて崩壊し、全焼した。
可燃物が燃えて建物に火がつき、窓は吹き飛び、枠は曲がっていた、西校舎はまだ使えた。西校舎は避難所から救護所となり、生徒、教師、学校関係者、地域住民の安否を問う場所となった。被爆者や被災者の人々は、焼けた壁に伝言を残して、床にはチョークの破片が散らばっていた。袋町小学校は1946年5月からわずか約37人の生徒から授業が再開された。
2002年に、老朽化した校舎の建て替えに伴い、被爆した校舎の西棟の一部が、袋町小学校平和資料館として保存された。伝言が書かれた内壁など、残存している被爆資料を展示している。広島市中区袋町にある平和資料館である。1945年8月6日に原爆が投下されたとき、同校は爆心地に最も近い学校の一つであった。数日後から国民学校は救護所となり、黒く焼けた壁は行方不明者を探すための伝言板となった。
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