ベトナム戦争にて、サイゴンに向かうバスが1972年8月29日に、殺害された北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線(ベトコン)兵士の死体の側を通り過ぎた。サイゴンから南西約90kmのカイペで殺害された多数のベトコンの死体が、道端に並べらて散在していた。バスの窓際から、乗客と南ベトナム軍兵士らが、平然とベトコンの死体を眺めて通りすぎた。南ベトナムでは、北ベトナム軍とベトコンのイースター攻勢の勃発から約1年間にもわたり犠牲を受けた。
北ベトナム軍はイースター攻勢(Easter Offensive, 復活祭攻勢, グエン・フエ攻勢)を開始し、非武装地帯やラオス・カンボジア国境を越えて、南ベトナムの複数の地域に多方面から攻撃を仕掛けた。復活祭の3日前の1972年3月30日から10月22日まで勃発した。北ベトナム軍は、ソ連や中国の新兵器、重砲、戦車などで武装した。北ベトナム軍は、大量の戦車・重砲と約10万人以上の兵士でクアンチ省を攻撃して、同時に中部高原、アンロク周辺のカンボジア国境地帯でも攻勢を開始した。南ベトナムは非武装地帯からの主要攻撃を予測せずに、南ベトナム軍は混乱に陥る。北ベトナム軍が仕掛けたベトナム戦争中で最大の攻勢であった。1972年までに、アメリカ軍は、ピーク時の約550,000人から約75,000人までに低下した。アメリカ軍は、ベトナム戦争の継続が弱体化していた。
大きな損害を被った南ベトナム軍は、アメリカ軍の空爆と砲撃の支援を受けて、夏の終わりには攻勢を弱めて反転させた。アメリカ軍は1972年5月8日から、大規模な非人道的な空爆を首都ハノイとハイフォン港に1968年のテト攻勢以来に投下した。クアンチ省の戦線を奪還化して、フエ、コンタム、サイゴン周辺の攻撃をしのいだ。南ベトナム軍が、北ベトナム軍を都市部から排除した。
北ベトナム軍は、約10万人もの兵士、多くの装甲と装備を失った。南ベトナム軍の犠牲者は約4万3千人、うち1万人が死亡した。イースター攻防戦では、約2万5千人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。約25,000人以上の南ベトナムの民間人が殺害され、ほぼ100万人が難民となり、そのうち約60万人が南ベトナム政府の管理下にある収容所に住んだ。平和を求める声も、国連の非難も、戦争裁判もなく、耳をつんざくような沈黙が続いた。イースター攻勢の結果、パリではアメリカと北ベトナムが軟化し、交渉では譲歩する姿勢が見られた。
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