1927年4月27日未明に、上海の暗黒街を支配する暴力団が労働者糾察隊を襲撃したのを起点に、 国民党右派の命令を受けた白崇禧軍が上海市内に侵攻して労働者糾察隊を武装解除して、抵抗する者を射殺した。 労働者糾察隊を指揮した周恩来は逃亡して脱出した。3日間にかけて、上海市は血の都市と化した。約20万人の抗議デモ隊に容赦なく機関銃の掃射を浴びせた。上海市内の各地で多数の共産党員や革命的労働者らは逮捕されては銃殺された。さらに4月15日にも広州でも同様な大虐殺が行なわれて、以後国民党軍の支配地域では白色テロが抵抗者らを虐待と虐殺した。
国民政府軍は反共産主義クーデター(四・一二事件)を、1927年4月12日に上海で強行して、国民党内部の反共産主義から勃発した。3月の漢口の国民党大会で、中共分子と左派は政権部分を独占すると同時に、国民革命軍の総司令部制度が廃止された。蒋介石は、単なる軍事委員の一員となり、実権を喪失した。4月6日に北京の警官隊がソ連公使館を襲撃して、極秘書類から赤色革命を使命された中共分子や武器から中国共産化が判明した。上海では1926年5月から、中国共産化から各工場で異様にストライキが勃発した。1927年2月には約36万人にも及ぶゼネ・ストが展開された。1927年3月には中国共産派による臨時政府が設置された。1926年7月から国民革命軍は、北伐を開始して11月には揚子江流域まで達した。1927年1月1日から国民政府を広州から武漢に移転した。上海クーデターにより4月18日に武漢政府を武漢から南京に国民政府を移転して分裂していた。
国民党の右派は、1927年4月初頭から戒厳司令を下して、次第に工人による糾察隊を武装解除した。ついに4月12日に一気に総工会を襲撃した。国民党は中国共産派を弾圧して、幹部の数十人を捕獲して路上で銃殺して虐殺した。1927年4月12日の夜明け前に、国民党革命軍は、閘北、南市、浦東などの組合労働者が管理する地区事務所を攻撃し始めた。緊急法令の下で、国民党第26軍は、労働者の民兵を武装解除するよう命じられた。その命令の結果、約300人以上が殺害された。組合労働者は大衆会議を組織して4月13日に蔣介石を非難し、数千人の労働者と学生が国民党第26軍の本部に抗議した。国民党軍兵士たちは発砲して、約100人を殺害して、さらに多くの市民を負傷させた。国民党は、上海の臨時政府、労働組合、および共産党の管理下にある他のすべての組織を解散して、国民党に忠誠を誓わせて、労働組合の連携を再編成した。一部の推定では、約1000人以上の共産主義者が逮捕された。その約300人が死刑にされて、約5,000人以上は行方不明になった。他の推定では約5,000〜約10,000人が殺害された。
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