1945年4月16日から5月2日まで第ニ次世界大戦の終結となるベルリンの戦いにおいて、ドイツ国民突撃兵がソビエト軍に殺害された死体が路上に散乱した。その死体には、携帯式の対戦車手榴弾を携えていた。特にベルリン攻防戦では正規軍にも劣らない膨大な犠牲を出した。約175,000人のドイツ国民突撃隊が殺害された。
ドイツ国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)は陸軍、海軍、空軍、武装親衛隊とともに多大な犠牲を出しながらも、特にベルリン攻防戦では正規軍にも劣らない膨大な犠牲を出した。しかし、国民突撃隊の指揮官は能力よりも党や指導者への忠誠心の度合いによって決まり、戦場では死守命令が乱発され、結果多くの国民突撃兵が戦死した。国民突撃隊は陸軍、海軍、空軍、武装親衛隊とともに多大な犠牲を出した。しかし、国民突撃隊の指揮官は能力よりも党や指導者への忠誠心の度合いによって決まり、戦場では死守命令が乱発され、結果多くの国民突撃兵が戦死した。連合国軍との戦闘やその後の敗残兵狩りで、多くの一般市民が巻き添えを食う原因となった。不充分な装備の老兵が目立つ国民突撃隊に対して、国防軍からは「補助予備役補」、「遅摘みのヒトラーユーゲント」、「国民の風」、「不具者近衛兵」、「報復兵器三号」といった蔑称が付けられた。装備も貧弱で、訓練もろくに受けず、戦闘経験が殆どない指揮官が多数を占めたため、戦力的には貧弱であった。
ドイツ国民突撃隊は、第二次世界大戦の終盤の1944年10月18日にヒトラー命令により、ドイツ国土防衛に備えて創設された市民軍事組織である。16歳から60歳の民間市民で構成され、指揮官は軍人ではなく、ナチ党の地元指導者が任命された。約600万人にも達する10,180個大隊の新たな兵力の創設が予定された。ドイツ国防軍はスターリングラード攻防戦の敗北から、恒常的な兵力不足に陥っていたが、1944年7月には国民擲弾兵師団を編成して、14~50歳までの男子を動員した。しかし、1944年後半になると連合軍はドイツ本土に迫り、戦局が更に悪化したため、ドイツ国土を防衛するために、一般市民を最低限の訓練を施した後に、末期には訓練なしのまま、戦線に投入した。国土防衛の緊急度に応じて第一次召集、第二次、第三次、第四次と計画された。大隊をドイツ全土を42に分割した地方軍隊の指揮下に置き、警備と居住地区の守備を任務とした。
動員されたドイツ国民突撃隊は一般軍隊とは非常に格差があり、第一次世界大戦に出征した古参、老人、十代前半の子供などの寄せ集め集団であり、士気も低下した。更に、大戦末期のため武器不足が深刻であった。対戦車攻撃用に大量生産された使い捨ての携帯式の対戦車手榴弾の他は小銃、拳銃でさえ第一次世界大戦時の武器をかき集めてた。全てには武器は行き渡らず、鹵獲を使ったり、個人所有の猟銃までもが駆り出された。簡易戦時生産型の銃を支給されても弾は満足に無く、小銃一丁につき銃弾が約30発以下の支給に過ぎなかった。補給もほとんど無かった。量を増やす目的の武器など個体差が大きく、質も安定していなかった。武器だけでなく物資も不足していた。鉄兜等も満足に行き渡らず、制服に至っては国防軍から提供される軍装では到底足りなかった。ヒトラーユーゲント等の党組織やドイツ国営鉄道の制服、さらにワイマール共和政以前の旧式軍装を流用・改造したり、私服に腕章を着けただけの有様であった。
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