エル・モソテの虐殺は1981年12月11日にエルサルバドルのモラサン県エルモソテ村で起き、アメリカ軍から訓練を受けたエルサルバドル軍兵士が、反左翼ゲリラ作戦で少なくとも約1,000人の民間人を虐殺した。エルサルバドルのエル・モソテ村の周辺でアメリカに訓練され武器を供与された一団が虐殺を起こした。1981年3月15日から政府軍は、ゲリラに対する掃討と焦土により、各地で無差別虐殺を執行した。1993年、国連のエルサルバドルのための真実委員会は、エルモソテで約5,000人の市民が「故意にそして組織的に」殺害されたと結論付けた。レーガンの政権下で、エルサルバドルには莫大な武力援助が行われた。その間には、エルサルバトルで破壊と殺戮が続き、死者は7万人に上った。翌年にアメリカの報道機関が虐殺を広報した。レーガン政権と大使館とエルサルバトル政府は直ちに否定した。約20年経過した2011年12月に、エルサルバドル政府は、エル・モソテの虐殺を公式に謝罪した。
エルサルバトル軍は当日にエル・モソテ村人を町の広場に連行して、男女を分別して、教会と修道院に子供らを閉じ込めた。兵士らは、3日間にわたり、村人全員を無差別に射殺した。少なくとも約143人以上の子供らも弾丸で建物を発火して焼死した。男性は尋問されて、拷問されて虐殺された。若い女性と少女はレイプ後に射殺された。
エル・サルバドルの社会的経済格差の拡大と隷従などから、1979年10月15日から政府は民族解放戦線(FMLN)と内戦が勃発した。アメリカ政府のレーガン政権は、政府に軍事援助をした。政府軍とFMLNのゲリラ戦に、一般市民が巻き込まれて混乱して対数の犠牲を伴った。政府軍は約20,000人以上、FMLM勢力は約7,00人、市民は約75,000人か死亡した。1992年1月16日に国連を通じてチャプルテペック和平で内戦が終結した。
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