日中戦争の徐州会戦において、1938年5月5日からの徐州市地区の戦いで、日本軍が徐州を5月19日に占領した。その戦闘に巻き込まれた母と女児が虐殺されて、その死体が路上に放置された。国民党政府は、重慶に撤退した。1938年5月5日から徐州の戦いが勃発した。5月16日には中華民国軍は徐州を放棄して、徐州から南東に向かって江蘇省北部の湖沼地帯に退却した。
更に、日本軍は南京占領後は戦勝者の立場で和平交渉に臨み、1938年1月に交渉は決裂した。この結果に近衛内閣は「蒋介石を対手とせず」との声明を出し、中国一撃も外交交渉も断念して、戦争終結の糸口を自ら放棄した。場当たり的な中国作戦を遂行した。
3月25日に徐州前の台児庄の付近で中国軍の反撃をうけて4月6日には後退した。中国軍は、台児庄の戦いを大勝利と宣伝した。4月7日には戦面不拡大方針を完全に放棄して、徐州攻略を命じた。1938年5月に、徐州付近に終結した約60万の中国軍に対して、徐州会戦で包囲戦を敢行した。約20万人の日本軍は、中国軍を包囲した。中国軍は包囲網をすり抜けて脱出した。徐州は占領するも包囲殲滅は失敗に終わった。焦る大本営は中国軍主力が駐屯する武漢と援助物資が流入する広東を占領する作戦を始めた。日中戦争で最大規模の約30万が動員して1938年8月に武漢を、10月には広州を占領した。すでに退却した中国軍は壊滅できなかった。広大な中国に引き込んで、徹底抗戦を訴えた。日本軍は疲弊し、もはや攻勢をかける余力はなく、占領地を維持する持久戦に移行した。日本国力の全てを軍需へ注ぎ込む国家総動員法を発令し、国民を更に戦争へ駆り立てた。1938年末の段階で中国には関東軍を含めて約96万人が動員された。戦死者は約18万人、戦傷者は約32万人で、犠牲を払っても終結を決着させることができなかった。1937年7月から1938年末で日中戦争は、日露戦争は約9万人の戦死者と、戦傷者は約15万人の約2倍にも達した。
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