間島事件によって、日本軍は抗日独立勢力とした朝鮮人農民らの首を切断して処刑した。抗日独立勢力は間島(かんとう)を拠点として、1919年3月1日の三・一独立運動を起点にして、国境地帯でゲリラ活動を展開していた。
旧満州の朝鮮との最北東部の国境地地帯である北間島で中国人の馬賊と朝鮮人の抗日独立連合軍が、1920年6月4日から鳳梧洞の戦いで日本軍を初めて敗退させた。1920年9月12日と10月2日未明には約400余の中国人の馬賊団らが北間島の琿春を襲撃した琿春事件で、日本領事館や商店等に火を放ち、約100人余を拉致して、多くの財物を略奪した。
日本軍は琿春事件を邦人保護と抗日独立軍に対する報復のために突如に10月16日から、シベリアに出兵していた関東軍の大部隊を中国領土に間島出兵して侵略した。日本軍は無差別に在住した多数の朝鮮人市民を抗日独立集団として大虐殺した間島事件を引き起こした。侵略した日本軍は、琿春の他、延吉、和龍、汪清等4県69の村で少なくとも約3,469人以上(日本軍の記録では約500)の朝鮮人を虐殺した。約3500軒の家屋、約59の学校、約19の教会、約9,900石の穀物を焼滅した。琿春事件は、逆に日本軍が抗日運動の朝鮮人集落を襲撃させるために、故意に中国人馬賊を買収して引き起こしたと日本軍の謀略説を朝鮮・中国側は提訴している。
朝鮮で土地を奪われた朝鮮難民は、間島を目指して豆満江を渡河した。1934年には、間島の総人口約57万人のうち、朝鮮難民は約40万人を超えて、約7割も占めた。間島は、朝鮮難民による抗日独立運動の拠点となった。
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