アメリカ軍を主体とする国連軍が占領した北朝鮮地域で、国際婦人連合の一行は、大量虐殺された朝鮮人の死体が発掘された塹壕を視察した。大量虐殺されて埋められた市民の死体は腐敗して異臭が発生した。
1950年6月に北朝鮮から突如に侵攻を受けた韓国軍は崩壊して、政府と南部の大邱付近まで退却した。大邱付近まで撤退して、7月からアメリカ軍(国連軍)の参戦した。韓国軍と警察は左翼勢力の暴動を恐れて、保導連盟事件で市民を大量虐殺した。1950年7月には、アメリカ軍は避難民の暴発を恐れて、老斤里事件で市民を大量虐殺した。韓国地域に侵略した北朝鮮軍と左翼勢力も、韓国軍・警察だけでなく市民と家族などを大量虐殺した。9月に国連軍の仁川上陸作戦で戦局が激変して、撤退する北朝鮮軍は、韓国の市民を無差別に大量虐殺と大量拉致をした。
北朝鮮軍が北朝鮮の奥地まで撤退した1950年11月に、中国義勇軍(中共軍)の参戦で戦局が激変した。1951年1月にソウルが再び陥落して、韓国の中部まで中国軍が南下した。3月からは北緯38度の休戦ライン辺りで戦線が膠着した。
韓国軍は、南部地域の智異山などの山岳地域のパルチザンと戦闘した。朝鮮戦争で南部から退却しなかった北朝鮮軍がパルチザンと合流して戦闘が激しくなった。パルチザン掃討作戦の韓国軍によって、北朝鮮のパルチザンによって、市民が大量虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力すれば韓国軍に虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力しなければ、パルチザンに虐殺された。1951年2月に韓国軍は、慶尚南道居昌で居昌虐殺事件により、市民を大量虐殺した。朝鮮戦争が1953年7月に休戦後も、南部山岳地帯で1955年頃まで戦闘が続いた。
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