中国の遼東半島の下端付近の牛荘で、日清戦争において日本軍と清国軍とが攻防した。牛荘の民家に立てこもって抵抗した清国軍兵士の殺害された死体が市街地に散乱した。
牛荘作戦は、日清戦争の戦闘である。遼陽平原の清国軍を掃討するために、牛荘に進出して営口を占領した。1895年3月4日に日本軍は牛荘城内で日清戦争で最初の市街戦が勃発した。清軍の抵抗は激しく、いたるところで猛烈な射撃の応酬をした。清国軍は、牛荘城の東南面からの退路が遮断され、「周章狼狽、遂に市街の各戸に鼠入し、決死の抵抗を為」した。城内は至る所で激し市街戦となり、3月5日に日本軍はようやく牛荘を完全に占領した。日本軍は、抵抗あるいは敗走する清国軍兵士を殺害して、投降する者は捕虜にした。清国軍は、遺棄された死体は約1880人、捕虜は約698人で、牛荘城の守備部隊は過半数の兵力を失って、犠牲者は最大となった。日本軍側は死傷者は約389人で、うち戦死者は約72名であった。
牛荘鎮は遼河の河口に位置して、遼代以来満州の海の玄関として栄えて、清代中頃に繁栄した。第2次アヘン戦争後の1858年6月に締結された天津条約と1860年の北京条約に基づき、遼東半島の下端の牛荘(Newchwang)が開港されるも、商港に不適のために遼河河口の営口を、外国人貿易に解放された。営口が栄えて、牛荘が寂れた。
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