第二次国共内戦中の1947年12月24日のクリスマスイブには、多数の児童の死体が、集団埋葬するために臨時の死体安置所の集合棺桶に入っていた。その臨時の死体安置所の入口から、生存している中国人の子供たちや市民らが集散して、多数の児童の死体を興味本位と不安げに眺めた。その周辺の上海では、1948年1月の冬の寒さの中で、多数のホームレスや子どもたちが路上で眠っていた。
第二次国共内戦が、1945年10月10日に双十協定により、内戦は一時的に回避された。双十協定調印の同日に、山西省で上党戦役が勃発した。1946年6月26日に中国共産党軍と国民党軍の全面戦争が始まり、休戦は崩壊した。その後、中国は3年以上続く内戦状態に突入した。中国共産党の切り札は、土地改革政策の戦略により、中国共産党は戦闘と兵站の両面でほぼ無制限に中国人民を確保できた。多くの戦闘で大きな犠牲を伴っても、中国人民の人手は増え続けた。上海攻略戦が、第二次国共内戦の後期に1949年5月12日から6月2日に勃発した。中国最大の都市である上海の支配権をめぐっては、国民党と中国共産党が戦った一連の戦いで、共産党が数的優位に立って上海を占領した。
第二次国共内戦の1947年12月から1949年5月17日まで、ジャック・バーズ(Jack Burns)がドイツ製中古カメラ3台を携え、LIFE誌の依頼で中国に渡った。中国の難民や売春婦、兵士や物乞い、路上での処刑や都市での抗議行動などを、国共内戦が拡大して、貧困、腐敗、混乱の中で、困難で危険な状況の中で撮影された。当時、国民党は約20年以上にわたり共産党の勢力と戦っていた。国共内戦の中国の姿だけでなく、戦火、疲労、絶望が、共産主義革命の肥沃な土壌となったのかを示唆した。普通の中国人々の日常風景は、貧困、抑圧、恐怖に包まれながらも、市民の回復力と尊厳を示唆した。1947年12月に上海にて、タバコを口にくわえた無表情の中国人男性が、栄養失調でやせ細った児童の死体を自転車カートに乗せた。上海の臨時の死体安置所に自転車カートで運んだ。
日中戦争期間中、国民党政府は増加し続ける財政支出を補填する法幣が1935年11月3日から1948年8月19日まで大量に発行された。1945年の終戦時には発行高は約5,569億元、戦前の約400倍まで規模が膨らんだ。1946年以降、国民党政府は国共内戦の戦費調達で更に法幣を大量に発行した。1948年8月には発行高は約604兆元にまで及び、僅か3年間で約1,000倍にまで増大て、市場にはスーパーインフレが招来した。あまりにも価値の下がった法幣は製紙会社の原料に使われた。宋子文が行政院長に就任すると、法幣の安定を図るために備蓄金を放出して貨幣安定を試みるが、法幣の発行量に追いつかず失敗に終わった。1948年5月に行憲選挙が行なわれ翁文灝が行政院長に任命され貨幣改革を実施し、新たに金円券を発行し法幣の流通を停止した。
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