太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、1944年9月15日午後4時30分に、斬り込み決死隊と師団戦車隊(軽戦17輛)で反撃した。歩兵を満載して、ペリリュー飛行場への侵攻路に突撃した。アメリカ軍の数十門の対戦車砲とバズーカ砲が一斉に火を吹いて、日本軍の軽戦車は次々と大破して、9月15日に壊滅した。日本軍の戦車の外には、アメリカ軍の火炎放射器で黒焦げに殺害されて焼死した日本軍兵士の死体が横たわり散乱した。
サイパンを攻略したアメリカ軍は、1944年7月24日に隣のテニアン島に上陸し、8月3日に日本軍守備隊が玉砕して終結した。アメリカ軍は8月11日にグアム島を奪還して、次の目標であるパラオ諸島のペリリュー島の攻略準備に入った。
満州の昂々渓に駐屯した第十四師団の約11,797人が、パラオ諸島に4月24日に到着した。4月26日に歩兵第二連隊がペリリュー島の駐屯した。ペリリュー島は南北約9km、東西約3kmの南海の隆起珊瑚礁の孤島で、島の中央部には最高90mの山々で、全島要塞化の洞窟陣地で約1万人の日本軍兵士が徹底抗戦した。
アメリカ軍は東洋一のペリリュー飛行場を狙った。フィリピンの真横で、フィリピン攻略の重要な基地になる。アメリカ軍は二個師団で約4万人をつぎ込んで、1944年9月15日午前6時15分に、アメリカ軍は西浜に上陸作戦を勃発した。ペリリュー島は約一週間前から爆撃と艦砲射撃で、ジャングルは瓦礫の山と化した。洞窟陣地の潜む日本軍守備隊はほとんど無傷であった。西浜に殺到したアメリカ軍との銃撃戦後は、敵味方入り乱れての銃剣による凄惨な虐殺が延々と展開された。アメリカ軍は多くの死傷者を出して、橋頭堡を確保した。
ペリリューの日本軍守備隊は、バンザイ突撃は行わず、敵を殺す一発一殺、一人一殺主義を貫いた。上陸第一陣のアメリカ軍は、約半数以上も死傷者を出した。約一週間後からは、日中は洞窟陣地に、夜にゲリラ戦となった。ついに日本軍は11月12日には、わずか300人となった。洞窟内の日本軍には小銃弾がわずかに残存して、11月12日午前7時過ぎ、アメリカ軍は最後の一斉掃討を開始した直後の午前7時40分に、日本軍の集団司令部に至急電報の「サクラ、サクラ」を連続送信した。最後に11月24日午後4時に連送して、ペリリュー守備隊は硝煙の大山の洞窟陣地で玉砕した。
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