第一次世界大戦にて1917年10月24日からカポレット(Caporetto)の戦い(第12次イソンゾ(Isonzo)の戦い)が、第一次世界大戦のオーストリア・イタリア戦線のコバリッド(現スロベニア北西部)付近で11月19日まで勃発した。谷間のイタリア軍の塹壕を、ドイツ軍は毒ガス攻撃で窒息させた。イタリア軍守備隊は命からがら逃げ出しても、イタリア軍の塹壕で約500~600人が殺害された死体が散乱した。
ドイツ軍部隊とオーストリア=ハンガリー軍は、イタリアの前線に侵攻して、対抗したイタリア軍を撃退した。ドイツ軍による毒ガスの使用が、イタリア第2軍の崩壊させた。1917年9月に、毒ガス学者オットー・ハーンと帝国参謀本部が、ガス攻撃に適した場所を探すためにイソンゾ戦線に赴いた。山の渓谷を西に抜けて、ベネチア平原に至るカポレット地区の攻撃を提案した。オーストリア=ハンガリー軍集団は攻勢に備えて、ドイツ軍6個師団と第14軍を新たに編成した。イタリア軍は無線でドイツ軍に気象情報が漏れた。
10月24日には風もなく、前線は霧に包まれた。午前2時に逆斜面に掘られた約894本の金属管が電気的に作動し、約600mlの塩素-ヒ素剤とジホスゲンが同時に発射された。谷間のイタリアの塹壕を、毒ガスの密雲で窒息させた。ガスマスクで身を守れるのは2時間以内で、イタリア軍守備隊は命からがら逃げ出した。それでも塹壕で約500~600人が死亡した。午前6時からイタリア軍の塹壕には迫撃砲を浴びせた。間隙を埋めるイタリア予備軍が進駐している谷間を狙った。午後8時に、谷間に接する高台の要塞の下で地雷を爆破させて、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍の歩兵が攻撃を開始した。谷間にある無防備なイタリア軍の要塞に侵入した。攻撃側の側面を守るため頂上にある要塞や砲台に侵攻した。ドイツ軍は機関銃、迫撃砲、山砲、火炎放射器、手榴弾で侵攻した。
攻撃隊は、イタリアに向かう道路をほぼ無敵で進軍して初日には約25kmも侵攻した。中央突破により、イタリア軍全体が混乱に陥った。イタリア軍は前線から兵力を撤退すると他の地点が弱体化して、さらなる攻撃を招いた。イタリアの全陣地が脅かされ、イタリア軍はタリアメントまで撤退する許可を求めたが、却下して再編成した。10月30日に、イタリア軍の大部分をタリアメントの反対側へ撤退させた。イタリア軍は川を渡るのに丸4日かかり、その間にドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍が追撃した。11月2日には、ドイツ軍がタリアメント川の橋頭堡を築いたが、攻撃の急速な侵攻が兵站の補給線が限界まで伸び過ぎて、イタリア軍にアドリア海から再攻撃が頓挫した。イタリア軍はさらに後退し、11月10日にはピアヴェ川とモンテ・グラッパに陣取り、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍の最後の追い上げを、第一次モンテ・グラッパの戦いで撃退した。
カポレットの戦いは、イタリア軍事史上最大の敗北となった。カポレット(第12次イソンゾの戦いの余波は、イタリア軍に前例のない大惨事であった。イタリア軍の損失は甚大で、戦死者1万人、戦傷者約3万人、捕虜約26万5千人であった。オーストリア=ハンガリー軍やドイツ軍は約7万人の死傷者にとどまった。
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