1927年の四・一ニ事件から国民党軍は、共産党の革命的民衆を処刑して虐殺した。残虐に殺害された共産主義者や革命家たちの死体が散乱した。1927年4月12日の上海大虐殺(四・一ニ粛清、四・一ニ事件)にて、蒋介石を支持する勢力と国民党の保守派が、上海の中国共産党組織と左派勢力を暴力的に弾圧した。4月9日に、蒋介石は上海に戒厳令を敷いた。4月11日に、蒋介石は国民党から共産主義者を粛清する国民党軍の管理下の全省に密命を発した。4月12日未明に、国民党軍第26軍は、閘北、南市、浦東など共産党組合員が支配する地区事務所を襲撃し始めた。蒋介石は緊急令により国民党軍第26軍に労働者民兵の武装解除を命じて、労働者民兵の約300人以上が死傷した。4月13日には、労働組合が蒋介石を非難する集会を開いて、数千人の労働者と学生が、国民党軍第26軍に抗議に向かった。国民党軍兵士たちは発砲して、約100人が殺害されて、多数の負傷者が出た。蒋介石は上海臨時政府、労働組合、その他共産党の支配下の全組織を解散させた。国民党に忠誠を誓い、杜躍成の支配下にあった労働組合を再編成した。約1000人以上の共産党員が逮捕されて、約300人が処刑され、約5000人以上が行方不明になった。約5000人から約10,000人もの共産党員が殺害された。欧米の報道で、国民党軍の白崇禧将軍は共産主義者の首を刈る男と呼称された。
1927年3月21日から3月22日に、国民党左派と中国共産党の労働組合が上海で武装蜂起した。四・一ニ事件後に、国民党の保守派は支配下の全地域で共産主義者の全面的な粛清を行った。広州や長沙でも激しい弾圧が行われた。この粛清により、国民党の左派と右派の分裂が公然と起こった。蒋介石は、王景偉(汪兆銘)を中心とした武漢の左派国民党政権と対立して、南京にある右派の指導者として4月18日に南京国民政府を成立した。6月1日に、王景偉はソ連と武漢の共産主義に決別して、蒋介石に接近するも武漢国民党政府は崩壊した。広州、厦門、福州、寧波、南京、杭州、長沙の約1万人以上の共産党員が逮捕されて20日以内に処刑された。
1927年7月15日までに武漢政権は共産主義者を追放し、国民党と中国共産党との第一次国共合作による統一戦線は事実上終了した。1927年から残りの期間に、中国共産党は政権を奪還するために中国内戦が勃発した。広州での広州蜂起の失敗と鎮圧により、共産党の勢力は大きく低下し、再び大規模な都市攻勢は困難となった。1927年4月以降の3年間だけで、中国全土で約30万人が内戦により殺害された。
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