南アフリカの真実委員会は、アパルトヘイトによる人種分離隔離政策で殺害された多数の無残な死体が発掘された。埋葬された死体は、身元も局在も不明であった。南アフリカは、1960年から1990年の間に処刑された政治犯の死体を発掘した。アパルトヘイト時代の人権侵害を調査している真実委員会は、死体や墓の発掘は、警察が幹部を待ち伏せして逮捕せずに殺害し、密かに埋葬するパターンを示唆した。南アフリカでは、アパルトヘイト体制の末期に、軍や警察は証拠隠滅をしていた。1992年3月には、南アフリカ公安本部は捜査記録を破棄する通達を出した。
南アフリカは1995年に国民統合和解促進法34により、真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)の法廷機関を設立して、アパルトヘイト時代に起きた人権侵害の真実を明らかにし、国民の和解をもたらした。第二次世界大戦後のドイツのニュルンベルク裁判や日本の極東国際軍事裁判とは異なり、被害者と加害者の双方から証拠を集め、情報公開に重点を置いた。1998年10月29日に最終報告書5巻が、2003年3月21日に最終報告書2巻が公表された。1960年代から1990年代に、何千人もの南アフリカの人々が拉致され、拷問され、殺害される悪辣な闘争が浮かび上がった。
1990年に、F.W.デクラーク大統領による解放運動と野党の禁止解除、ネルソン・マンデラの釈放、南アフリカの非常事態解除により、アパルトヘイト政権と対抗する人々と和平調停で、南アフリカは300年以上続いた植民地主義とアパルトヘイトを解決を図った。当時の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラは、デズモンド・ツツ大主教を委員長に任命した。被害者から約2万2千件以上の意見書を受け取り、公聴会を開いて、アパルトヘイト国家による拷問、殺害、失踪、拉致、重度の虐待と定義される重大な人権侵害を証言させた。アフリカ民族会議、インカサ自由党、汎アフリカ主義会議などの解放運動の指導者も、委員会に姿を現し、解放運動の手によって侵害を受けた人たちが証言した。委員会は7,000件以上の恩赦申請を受理して、2,500件以上の恩赦公聴会を開催し、アパルトヘイト時代に犯した何千もの犯罪に対して1,500件の恩赦を与えた。
アパルトヘイトとは、20世紀後半に南アフリカで少数民族である白人と多数民族である非白人の関係を支配した政策で、人種隔離と非白人に対する政治的・経済的差別を是認した。1948年以前の南アフリカでは、法律による人種隔離政策が展開した。1948年に国民党が、アパルトヘイトと呼称して、1950年人口登録法で分離隔離が拡充した。。1950年の集団地域法で、種ごとの居住区と営業区を設け、他の人種の居住、営業、土地の所有を禁じた。南アフリカ国内には常に反対運動があった。黒人グループは、一部の白人の支援を得て、デモやストライキを行い、暴力的な抗議活動や破壊活動も数多く行われた。1960年3月21日、シャープビルでアパルトヘイトに反対する最初の、最も暴力的なデモが行われた。警察はデモ隊に対して発砲して、約69人の黒人アフリカ人が死亡、多数の負傷者が出た。1976年、アフリカ系黒人の学生にアフリカーンス語を強制して、ソウェト暴動が発生した。
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