ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍と南ベトナム軍の連合軍兵士の死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。負傷者がおろおろと歩き、何ヵ所にもつくられた仮霊安所では引きとり手のない死体に、たえまなく線香の煙が包んだ。フエ攻防戦は、近代の市街戦の悲惨を証明した。
テトの祝日である1968年1月31日未明から、約6000人以上ものベトコン解放勢力の大部隊が、 ロケット弾からフエ攻撃に移った。旧正月の古都フエは眠っていた。飛行場など目ぼしい軍事施設は、たちまち北ベトナム軍と解放勢力の手中に陥ちた。サイゴン政府軍の約1000人以上は旧正月の休暇をとって、残る兵士も不意打ちに狼狽して、半数以下にまで縮減した。アメリカ軍はフエ市内の顧問団本部に小規模配備のみであった。
北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)は、短期間でフエの大部分を占領した。その後に、アメリカ軍とベトナム共和国軍(ARVN)は、激しい一軒一軒の市街戦で、徐々に追い詰めた。日中にできるだけ多くの家屋を奪って、防御態勢に入り、翌朝に家屋間の戦闘を再開した。連合軍は3月2日にフエを奪還した。フエ攻防戦で、約3,000人が殺害されて、北ベトナム軍とベトコンは約2,000人の民間人を処刑した。北ベトナム軍とベトコンの死者は約5,133人、連合軍はの死者は、約668人と負傷者は約3,707人に及んだ。
ベトナム戦争のテト攻勢で解放民族戦線側は約6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、アメリカ軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。その後のテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍は約3,895人、南ベトナム軍は約4,900人、解放民族戦線は約5万8,373人であったとアメリカ軍は公表した。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人で、その約30%余りがテト攻勢のわずかな期間に失った。
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