1945年9月下旬に、野球帽をかぶった少年兵士は、広島原子爆弾による被爆で、広島日赤病院の野外で待機した。右手と耳介にまだ生々しい火傷のガーゼ治療を受けていた。松本栄一が撮影した。8月6日の広島原子爆弾の炸裂した直後から、広島市内の被災の復興から、9月18日には、被爆者の死体や遺骨は処理された。
朝日新聞社の出版写真部に所属した松本栄一は、「科学朝日」の取材で、長崎原子爆弾を8月25日から9月15日まで、被爆地の長崎市内を撮影した。その後に広島原子爆弾の被爆を9月18日から9月25日まで広島市内で撮影した。枕崎台風が広島を直撃した翌9月18日から広島市内に入って撮影した。爆心地から全壊全焼の区域に残った建造物などや被爆者の被害を記録した。呉の江田島駐在の暁部隊が広島原子爆弾が炸裂した直後から広島市内に駐屯していた。
朝日新聞大阪本社は、8月10日付け(半沢・松本特派員発)に「浦上天主堂も壊滅、長崎の惨禍」の見出しの約100行ほどの記事で、初めて原爆の報道が発信された。朝日新聞大阪本社は、8月15日付で「正体を残した原爆」で、はしごの人影の写真が掲載された。
アメリカ軍の検閲とネガ提出命令に対し、個人で写真を守り通した。撮影された数百枚の写真は、GHQ占領下にて原子爆弾に関する報道は、占領軍によって厳しい検閲をされた。写真だけでなく、ネガの提出も求められ、自主的処分と弁明して、個人ロッカーに秘蔵した。その後に、1952(昭和27)年8月6日の『アサヒグラフ』で、原子爆弾の戦争被害の特集が約70万部で初公開された。1952年4月28日にアメリカとの旧安保条約発効に伴って、プレスコードが廃止された直後に出版され、全世界に強烈な衝撃を与えた初の原爆被害写真集となった。
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