約12万人のベトナム軍が1978年12月25日に、カンボジアに侵攻した。1979年1月7日には、首都プノンペンが陥落した。1978年12月に結成された親ベトナム派のヘン・サムリン議長の救国民族統一戦線が、カンボジア全土の制圧を公言した。それに対抗して、ポル・ポト議長の民主カンボジア政府軍は、カンボジアの国境沿いで徹底抗戦のゲリラ戦を継続した。その戦火に追われた民間カンボジア難民が、1979年1月頃から続々とタイ国境を集団で越え始めた。
タイ軍は、カンボジアの共産主義勢力がタイ国内に流入を阻止した。そのため民間カンボジア難民は、国境線上で銃剣と地雷で追い返された。4月頃になると、国境地帯は雨季に入り、ジャングルに迷入したカンボジア難民は、栄養失調とマラリアなどの感染症で多数の死者が発生した。カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。
1979年10月11日に約1万人のカンボジア人の難民集団が逃避して国境周辺のクロンワー村に到着した。その道端には、多数の歩行困難となった重病の難民が転がった。その自由病の難民は見捨てられて、絶命後の死体が散乱した。10月2日には、国境周辺で激闘が展開された。森の道端には、多数の瀕死の難民が横たわり、やがて生命が途絶えた。クロンカイテェムの山林には、新たに約2万人の難民が出没した。山地から下る難民は、タイ軍が流入を阻止するバリケードを避けて、越境をした。
タイ・カンボジア国境約800キロには、川の国境もある。広いところで約20m、狭いところでは約10mに満たない。この地域が平和であった頃は、両国の国籍を持つ人々は何の苦もなく川を渡っていた。タイ語とカンボジア語を喋り、川の向こうとこちら側で 親戚同士も珍しくなかった。カンボジアの2度にわたる政変は、国境の1本の線に、多くの生命に意味を付与した。1975年4月、アメリカに支援されていたロン・ノル政権が倒れると、カンボジア政府軍の敗残兵らが難民となり、川を渡って、国境地区に住み着いた。次いでポルポト派の民主カンボジア政府軍が、ベトナム正規軍と数千人のヘン・サムリン軍に追われ、いま国境を越えて追い出された。カンボジア難民は大量で、悲惨で、複雑であった。
ポル・ポト派の正規軍兵士もいれば、家族を殺されたとホル・ポト派に恨みを持つと同時にベトナム軍の支配を嫌う者もいた。軍人が常に家族を伴って、難民と兵士の区別をいっそう困難なものにした。一部の例外を除き、難民が疲れ、飢え、病んでいることは明白であった。難民の約80%が熱帯性のマラリアにかかり、ウイルス性肝炎、結核も多く、毎日毎日彼らは死んでいった。
1979年10月24日、国境の村のクロンワーからサケオのキャンプへの移動が始まった。総数3万人のうち1万人は、キャンプ行きを拒否してカンボジアへ帰って行った。どちらの行動もとれない約500人の病人が置き去り放置された。1日に20人くらいが息を引き取っている。1979年末には、カンボジア難民の数は約68万人となり、カンボジア領の国境沿いに約100万人の難民が集結した。チュイ・ポンはカンボジア語で助けてという意味だが、国境でこの声を聞かない日はなかった。
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