日本軍による韓国併合から解放された朝鮮人による政治的暴力で、終戦後に初めて朝鮮人が殺害された。アメリカ軍が1945年9月8日に朝鮮半島の仁川に上陸した際に、日本軍の警察隊によって朝鮮人が射殺された。殺害された朝鮮人の死体は労働組合指導者のクォン・ピョングンあるいは平和維持活動家のイ・ソククのどちらかであり、9月8日に殺害された。8月15日の日本の降伏から3週間以上たった年9月8日に、アメリカ軍は大量に韓国に到着し上陸を始めた。その後1カ月半で、その数は朝鮮半島の占領期間中のピークである約7万7000人にまで増大した。
日本軍の警察の働きにより、9月8日にインチョンにいた朝鮮人は、アメリカ軍が大挙して上陸し始めると鎮圧された。その数日前から、インチョンとソウルの間の村々に住む数百人の朝鮮人が、アメリカ軍憲兵隊の先遣隊に集まり、車両を花で飾った。その後に続く大規模な部隊は、「民衆の束縛を打ち払うために天からまっすぐ降りてきた輝く騎士のようだった」と記載された。アメリカ軍兵士が朝鮮半島の南半分に散らばって占領の任務につくと、ほぼ一様に英雄として歓迎された。しかし、蜜月は短いものであった。ホッジ将軍がソウルに到着してから数日のうちに、警察は混乱し、街は緊張に包まれた。ソ連領事館にいたソ連軍は、扇動者を煽っている疑いがあり、これまで見た中で最も荒っぽく、最も乱暴な集団」であると述べた。国務省の占領軍の担当者は、石炭と食糧穀物の危機的な不足と広範囲に及ぶ広範な地域の失業を報告した。占領下のアメリカ国務省代表は、日本の軍需産業の崩壊と、多くの朝鮮人が長期休暇を選択したことも一因であった。
アメリカ軍が朝鮮半島に9月8日上陸する頃に、朝鮮人は日本軍の植民地支配に代わる独立運動活動に深く関与した。8月中旬に、日本軍の阿部信行総督は、日本帝国の降伏を予期した。8月8日に宣戦布告したソビエト軍が、朝鮮半島に侵入した。朝鮮人が、約16万3,000人の日本軍兵士と約37万8,000人以上の民間日本人を攻撃することを恐れた。終戦の秩序を確保するために特権階級の朝鮮人を従事させた。阿部は、非共産系左派の余雲彪に接近して、穏健な民族主義者の朝鮮人に拒否された。ソウルに「朝鮮独立準備委員会」を設立して、朝鮮の自主独立政府の枠組みを策定した。日本軍から脱走した朝鮮住民の朝鮮人兵士や武装した青年団、私兵の支援を受けた。その中に中国共産党が解放した数千人の囚人(政治犯、犯罪犯を問わず)も含まれた。
朝鮮人の保守派の多くは朝鮮建国準備委員会への協力を拒否して、左派中心の組織となった。当時の朝鮮半島は、新旧の階級、政治団体、イデオロギーが入り乱れた。朝鮮人は約5人に約4人が農業で生計を立てる小作人であった。日本軍が主導して資本家、ホワイトカラー、工場労働者が混在した。戦時中の動員により、日本国内へしばしば強制移住させた。名前や言語を含む朝鮮文化の痕跡を根絶する強硬な同化が勃発した。朝鮮人は公然と抵抗するのは不可能であり、朝鮮人は程度の差あれ日本軍の支配に迎合し、解放の際に表面化する怨念を朝鮮住民の朝鮮人に生み出した。政治的には右派と左派に大別された。財産と教育を受けた朝鮮人の多くは、日本と何らかの協力関係にあり、包括的な土地改革や富の再分配の手段など、極端な変革に反対する右派に属した。日本の植民地支配の下で働いた低学歴、低所得の約40%近くが朝鮮人であった悪名高い警察官も、日本に加った。
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