日中戦争から南京事件が1937年12月に勃発した。南京郊外にて、その近くを歩いていた物売りが怪しいと、日本軍兵士が、部隊の裏手へ強制連行した。その直後にズドンと一発の銃声が聞こえた。現場に行ってみると中国人農民が射されて、死体が横倒しとなった。南京郊外で罪のない中国人の農民が撃ち殺された。日中戦争の戦場の狂気が、人間を野獣にかえてしまう。
非公式の写真班であった村瀬守保は1937年7月に日本軍に召集された。輜重兵として天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国大陸を約2年半にわたり転戦した。カメラ2台を持って、関東軍の中隊全員の写真を撮影した。非公式の写真班として認知され約3,000枚の写真を撮影した。日中戦争下の日本軍兵士を、克明な写真記録は戦争の実態を百聞は一見にしかず伝達した。一方で、その写真集には南京虐殺の現場や慰安所など、侵略の真実も撮影された。村瀬守保『新版 私の従軍中国戦線一兵士が写した戦場の記録』日本機関紙センター, 1987年3月10日出版で戦争写真を公表した。文字や絵だけより、写真は確かな戦争の証拠であり、戦争写真の意義は大きい。
南京事件は、中国人に対する集団虐殺が勃発した。満州事変以来、日本軍の中国における軍事行動には、尊厳や生命の保護とはかけ離れ中国人を蔑視した。日本軍が戦闘後に捕えた中国人兵士等は、国際法上の捕虜ではなく、反乱集団として組織的に虐殺した。包囲殲滅戦となった南京では、大部分の中国人兵士は士気を消失して敗走し、多くは投降兵・敗残兵・便衣兵(普段衣を着た兵士)の捕虜として捕えられて殺害された。捕虜として収容する前の戦闘中でも、武器を捨て無抵抗者を現場で殺害することは、人道に反する行為である。
非戦闘員である一般市民の殺害は、戦闘の巻き添えではなく、日本軍兵士の故意的な軍事行動によって犠牲になった。上海派遣日本軍は上海での激戦で多くの損害を出して、中国人に対する蔑視と敵愾心が強く、一層の蛮行を伴った。食糧は全て徴発と称した略奪、徴発などの途中で女性の強姦、摘発した日本軍兵士が殺され、報復として部落全体を焼き払い、老人・子どもを含む市民を皆殺しにした残虐行為は、日本人、中国人双方の多くの証言がある。南京事件は、軍隊が平凡で優しい人間を異常な殺人鬼に変えてしまった。日本軍は南京で無差別に殺害する日本軍兵士を容認し、兵士たちは民間人を殺すために戸別訪問した。多くの人は殺害に夢中になり、完全に殺人になり、人を殺すことに喜びを感じた。
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