ござとむしろの上に、布毛布をかけて、ひとりの男性被爆者が横たわっていた。火傷した左前腕と手指で、周囲の書類をつまんで眺めていた。被爆者の周囲には、棒きれの箸と茶碗が置いていた。1945年9月中旬に、アメリカ海軍が広島市内の臨時収容所内部の地下1階で、被爆者を撮影した。広島市内上流川町(現在中区胡町)の日本勧業銀行広島支店の収容所にて、アメリカ海軍が撮影した。但し、日本勧業銀行広島支店の収容所は、宇品の陸軍船舶司令部は8月12日に引き揚げている。第二総軍の本部が焼けて治療室がないため、重症の被爆者はどこかほかの救護所へ移送された。
日本勧業銀行広島支店は、1931年4月に鉄筋コンクリート造の新しい本店が竣工して移転した。アメリカ風のRC造3階建て地下1階の建物であった。中国新聞社の東隣りで、1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約940mに位置した上流町の日本勧業銀行広島支店(3代目本店)は外郭は維持されたものの内部が全焼し、勧銀全体で32名の犠牲者を出した。
広島原子爆弾の被爆当日の8月6日から、日本勧業銀行広島支店は、広島市の受託銀行として援護資金を融資して、戦後も長く勧銀広島支店、1971年から第一勧業銀行広島流川支店として使用された。1972年には八丁堀の広島支店に統合された。店舗は廃止されて、清水組広島支店などに利用された後に、1980年に解体された。
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