広島赤十字病院は、広島原子爆弾の被爆直後から押し寄せる被爆者の診療の補助と療養上の世話など多忙を極めた。広島原子爆弾により、頭部から顔面にかけて被爆した熱傷や外傷に対して、1945年10月上旬に看護婦らは広島日赤病院の外来で被爆者に包帯交換などをした。担架で運ばれた被爆者は入院に、外来には、被爆者が詰め寄せた。被爆者は、原子爆弾の猛烈な爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、悲惨な身体に変貌した。傷口には、チンク油やリバノール液をガーゼで塗布した。ホウ酸水で洗浄した包帯で、創部の傷口を覆った。カーテンを裂いた包帯を巻いた。爆風により、突き刺さったガラスを除去した。
広島赤十字病院は、被爆直後から救護活動を開始した。各所に救護テントを増設して救護した。広島赤十字病院は、爆心地から約1.5kmにあり、医療関係者や職員らは約51人が死亡して、約250人が重軽傷を負った。市中心部で焼失を免れた数少ない病院であり、め、治療を求めて被爆者が殺到した。鉄筋コンクリート3階建ての病院は、外郭だけが残存して、猛烈な爆風によって窓ガラスは吹き飛び、室内も無惨に破壊され、悲惨な被爆した建物となった。木造であった看護婦生徒寄宿舎はほぼ全壊して、火災により類焼した。看護婦には、原爆症と過労のために血便も続出して、貧血に陥った。看護婦は、身を横たえた末期の被爆者を、できるだけ楽に死に行くように見守った。水道水で、身体を清拭して、末期の水を求める被爆者には致し方なく禁忌の水を含ませた。排泄介助、感染予防などから死体の処理まで担当した。
戦時体制に向けて、国家の全ての人的・物的資源を、日本政府が統制管理する1938年に国家総動員法が成立した。1944年8月23日には、太平洋戦争時下の労働力不足を補うために、中学以上の男子生徒と12歳以上の未婚女性を強制労働に動員できる学徒勤労令・女子挺身隊勤労令が交付された。戦時体制下の看護婦も巻き込まれて、従軍看護婦など兵役勤労にも動員された。
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