1950年10月に、北朝鮮軍によって集団殺害された死体の中で、咸興(Hamhung)市の市民たちは家族の死体を探索した。国連軍の仁川上陸後に、北方に追い出されて後退した北朝鮮軍が、金日成の命令で、約300人の反共産主義の政治犯を殺害した。咸興出身の韓国人は、北朝鮮軍によって殺害された政治犯の遺体を特定している。その他に、金日成の指示で、咸興市にて、北朝鮮人民軍は反共産主義政治犯の約300人を洞窟の中に生き埋めにして約300人を窒息死させた。占領したアメリカ軍と韓国軍は、地域住民に洞窟内の死体を運び出させた。咸興の井戸の中に水没して虐殺された死体も地域住民が引き出した。腐敗して悪臭を漂う死体群を、1950年10月10日に朝鮮人の女性や老人の家族や遺族らに開放して死体を探索させて検死させた。生き埋めにされた死体を見て、家族や遺族は呆然として慟哭した。
咸興市は、北朝鮮で3番目に大きい都市で、咸鏡南道の道庁所在地である。朝鮮戦争(1950年6月25日から1953年7月27日)ではアメリカの空襲により約80から90%が破壊されて、1950年10月17日から1950年12月17日にかけてアメリカ軍と韓国軍によって占領された。連合軍は、1950年10月1日に38度線を越えて北朝鮮の東海岸を北進して、10月10日に北朝鮮の主要港である元山を占領した。韓国中部からも、西部からも、10月9日に平壌に向かって38度線を越えた。10月中旬までに、連合軍は北朝鮮の領土に約32km侵入した。
1950年10月の後半、北朝鮮軍の抵抗が弱まり数千人が降伏して、北侵は加速した。残存した共産主義部門の破壊と重要な北朝鮮の都市の占領をした。朝鮮半島の中部から東部に占領が拡大した。咸興と興南を中心に工業地帯に向かって北侵して、元山から平壌に向けて西侵した。金川から平壌に侵攻した。10月19日には平壌に侵入して、約2日間平壌を侵略した。10月20日に、連合軍は平壌市の約48km北上にある粛川と順川に侵攻して、北方に逃げる北朝鮮人を捕らえた。北西部では、連合軍は10月26日に楚山の町から中国との国境の鴨緑江に最初に到達した。
遂に鴨緑江に到達した同日の10月26日に、韓国軍は長津湖で中国義勇軍の攻撃を受けた。アメリカ軍が10月28日に最初の攻撃を受けた。中国義勇軍の大軍が、11月1日から国境の南方約145kmにて連合軍を猛撃して壊滅した。撤退する連合軍に対して、中国義勇軍は、11月5日まで猛追した。連合軍は、11月27日に鴨緑江付近に再侵攻するも、中国義勇軍に逆襲を受けた。11月29日に、連合軍は侵攻が撤回されて徹底が命令された。アメリカ陸軍史上最大の約12,975人の死傷者の犠牲を伴う敗走の一つとなった。
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