モスクワ劇場事件が終結した2002年10月26日午前7時から、救助隊が毒ガス殺された人質の死体を運び出し始めた。死体は劇場の通路や正面入口の舗道にずらりと並べられた。人質の死体には銃創や出血の兆候はなかった。顔は蝋のように白く引きつって、目は開いて虚ろであった。意識喪失の人々と殺害された死体で埋め尽くされた。人質の死体は2台のバスに収容された。病院には武装ガードが配置されて封鎖された。公式の死者の数は25人の子供を含む90人以上に達した。
2002年10月23日にチェチェン共和国のイスラム過激武装勢力の約50人が、モスクワのドゥブロフカ劇場を襲撃した。人気ミュージカルの公演中に、午後9時過ぎに約850人もの人質に取るテロ事件が勃発した。武装集団が舞台上に上がり、機関銃を乱射した。身体に爆発物を巻き付けた女性も含まれた。要求はただ一つで、ロシア軍の第2次チェチェン紛争からの即時の完全撤退であった。モスクワ劇場の文化宮殿で、約57時間に及ぶ膠着状態を経て、人質2名が殺害された後に、10月26日早朝に、ロシアの特殊部隊が劇場を包囲して突入した。その直前に、強力な麻薬性毒ガスを建物に注入して、ほぼ全員を窒息させた。直後から壁と屋根を破壊して、地下の下水道トンネルから侵入した。約40人のテロリストと約130人の人質は、特殊部隊の襲撃で殺害された。治安部隊は、人質に対する大量虐殺は、危険な毒ガスにより、テロリストの自爆を未然に防ぎ、武装解除できなかったと弁明した。
チェチェン共和国にはイスラム教徒が多く、ロシアに対して独立を長期間に主張した。ロシアで1999年に起きた連続アパート爆破事件を、チェチェン武装勢力が引き起こした。わずか3年後にロシア軍がチェチェン共和国を侵略した。2000年に、ロシアのプーチンは、チェチェン共和国に対する強硬姿勢とテロリストの交渉拒否を公言して、大統領に当選した。モスクワ劇場テロ事件の後に、プーチン政権はチェチェン共和国を猛烈に弾圧して、誘拐や拷問などの残虐行為を執行した。これに対して、チェチェン共和国の反政府勢力は、2004年2月のモスクワ地下鉄での自爆テロで約50人の乗客の殺害、2004年年5月のベスラン校で人質約334人が殺害された人質事件など、ロシア国内でのテロ事件が頻発した。
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