コソボ自治州のブリズレンの病院には、1999年4月14日にNATO(北大西洋条約機構)の空爆による誤爆により、虐殺された犠牲者の死体が収容された。その死体置き場(モルグ)の床には、6つの死体が白い袋に包まていた。死後硬直を来した死体の中から、黒い血液が大量に滲み出ていた。射殺ではなくて、空襲の誤爆による爆死であった。最も小さい白袋は、血まみれのわずか7歳の少女の死体を包み込んだ。虐殺された少女は、アルバニア人の難民であった。セルビアにて難民となり、NATOの誤爆に巻き込まれて虐殺された。
コソボからマケドニア、アルバニア国境を越えて、セルビアまで逃げて来たアルバニア難民は、セルビアにて猛烈な虐待や虐殺を受けた。そのアルバニア人に対する虐待と虐殺が、NATOの空爆を強烈にして、アルバニア人難民が誤爆に巻き込まれて逆に虐待と虐殺された。アメリカ軍は、高速で飛ぶ戦闘機が、爆撃する誤爆は避けられないので、多数を救うためには、少数を犠牲にするのは当然とした。イギリス軍は、コソボ紛争で巻き込まれる市民の犠牲は、すべてユーゴの責任に転嫁した。ブリズレン地域は、NATOは確実に軍事目標と民間目標の鑑別は、当然に可能な天候と見晴らしであった。NATOの戦闘機は、3台の民間耕作機を軍事目標として爆撃した。ブレズレン地域は、至る所にミサイルの瓦礫が散乱していた。
NATOによるコソヴォ紛争に対するユーゴスラビア空爆は、1999年3月24日から開始されて、6月20日まで約78日間にもわたり勃発した。NATOの空爆には、13ケ国が参戦して、約26,614個が投下された。NATOは国連の明確な指導を受けずに、ユーゴスラビアの弱小軍事力を圧倒した。ハイテクの爆撃機で空爆して、NATOはほとんど犠牲者は皆無であった。コソヴォで多数を占めるアルバニア人に対して、セルビア民族主義のユーゴスラビアから抑圧と弾圧された。1998年2月から、ユーゴスラビア軍とセルビア軍が、コソヴォに侵攻して、次第に紛争が激化した。9月23日に国連の安保理決議は、ロシアにより拒否された。
NATOは9月24日に警告行動を発令し、コソヴォでアルバニア人の虐殺事件でユーゴスラビアに警告した。ロシアと中国の安保理決議の拒否権の発動に対抗して、10月13日にNATOは行動命令を発令した。コソヴォ紛争が再燃して、1999年1月15日にラチャク村虐殺事件が勃発した。3月19日にユーゴスラビアとアルバニアの和平協議が頓挫した。NATOは、国連は武力行使は支持しない声明を排除して、3月23日に空爆の開始命令を発令して、3月24日からNATO空爆が勃発した。
NATOは1995年に軍事力によりボスニアを迅速に圧倒できた過信から、コソヴォ紛争に対する空爆が長期化する誤算を引き起こした。ユーゴスラビア側は、和平案を拒否続けた。逆にユーゴスラビアが、アルバニア人国外追放で反撃した。NATOの圧倒的な軍事力が、逆にセルビア人の大量虐殺に至った。軍事力による勝利で解決する戦争ではなくなった。NATOは勢力を東方拡大するために、バルカン全体の領土の確保を追求した。
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