日中戦争が1937年7月7日に盧溝橋から勃発した直後に、1937年7月に天津の川に中国人の死体が浮かんだ。7月25日には、北京と天津間の廊坊でも、7月26日に北京の広安門で、7月28日から一斉に日本軍と中国国民党軍が交戦した。日本軍は7月31日までに、永定河の東海岸を制圧して、北京に入城した。中国国民党軍は北京と天津間からも敗退した。
日本軍の検閲により、中国人の死体を撮影した写真の掲載が不許可であるX印が写真上に書き込まれた。戦場における戦傷者を撮影した写真は、戦意喪失、厭戦反戦気分を煽るものとして「不許可」となった。日本軍に従軍カメラマンは、日本軍兵士の死体をほとんど撮っていない。敵軍兵士の死体の写真を多数撮影して、許可・不許可・保留の裁定を受けた。戦場から新聞社に到着した原稿や写真は、黒字で検閲の内容を記載されて、許可の場合は検閲済、不可の場合は不許可、未定は保留の判子を捺印された。戦争に勝利するために、大本営の意向を市民に伝える媒体になった。
陸軍・海軍・内務省・情報局の検閲を受けると不許可写真となり廃棄処分となった。毎日新聞は第2次上海事変から日中全面戦争の写真を秘蔵した。日本にて唯一の残存した歴史史料写真となり、毎日新聞社編、一億人の昭和史 (10) 不許可写真、 1997年3月発行に掲載された。明治政府の新聞紙法から出版法などの検閲で、言論の自由が奪われた。太平洋戦争下ではほぼ全ての報道の自由が奪われた。報道機関は、日本政府と日本軍のプロパガンダの宣伝紙に変貌した。新聞の検閲は、官憲の意向で解釈されて発禁から事業の廃止まで厳罰に処せられた。1942年2月には、新聞社の整理統合が断行され、ページ数も次第に減少して、16頁から敗戦直前には1頁まで圧縮された。各新聞社には、大本営の許可したるもの以外は禁止され、取材もなく大本営の発表のみ掲載した。1945年8月15日に敗戦になってから新聞社は市民に初めて太平洋戦争と大本営の真実と新聞社の虚偽を掲載した。
第二次世界大戦中は、アメリカ軍の検閲は戦争情報が市民に届かないようにした。特に重要な検閲が、戦争写真であった。戦争情報局は、政府の検閲官やメディアの自己検閲を通じて、戦線での戦闘の写真を検閲した。第二次世界大戦の最初の2年間は、写真の検閲が継続されて、アメリカ人の死傷者の写真は完全に禁止された。数年後の1943年には、写真の検閲が緩和された。死者の顔がはっきりせず、血まみれの恐ろしいものではなく、比較的穏やかな死体ならば、兵士の死体を見せることができた。犠牲を示すことで、戦争に疲弊した国内の市民を奮い立たせると考えた。戦闘地域で撮影された写真は、公開前に徹底的に審査される。検閲の対象は、アメリカ軍の砲撃による民間人の犠牲者や残虐行為を行ったアメリカ軍下士官や、衛生兵が治療している敵兵などである。結局は、戦場での恐怖や戦闘員の精神的苦痛などさまざまな戦争情報が隠された。
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