1937年8月12日午前9時30分頃に皇道派の相沢三郎陸軍中佐が陸軍省に到着して、山岡重厚整備局長との談話中に給仕を通して、統制派の永田鉄山軍務局長の在室を確かめた。午前9時45分頃に、陸軍省の軍務局長室に突入して直ちに軍刀を抜き、永田鉄山に斬りかかり刺突して暗殺した。永田鉄山は隣室に逃れようと、軍事課長室のドアに身体を当てるも、相沢三郎は体当たりして背中から軍刀で突き刺して、刃先は体を突き抜けドアまで達して刺殺した。相沢事件あるいは永田事件と呼称された。1938年1月28日から開廷した軍法会議は勅許奏請の手続きの段階となった。突如に1938年2月26日未明に、皇道派の青年陸軍将校らが二・二六事件のクーデターを勃発した。5月7日に死刑の判決となり、7月3日に銃殺刑が執行された。
統制派は、当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、陸軍幹部である永田鉄山が陸軍大臣林銃十郎を通じて政治上の要望を実現する人事異動による合法的な組織で、列強に対抗し得る高度国防国家を目指した。それに対して皇道派は過激思想から、天皇への忠誠を誓い、結果を問わず危険な行動に走り、政財界の君側の奸を排除して天皇親政の下で国家改造する昭和維新を目指した。皇道派に敵対する永田鉄山が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に敵対する統制派なる派閥の頭領にさせられた。皇道派が、統制派による人事の冷遇と排除に反発して、統制派の幹部を暗殺した。時代の転換点となり、個人主義、自由思想は一切排撃されて統制されて、時代は一挙に全体主義に逆戻りした。
軍人はよく国家革新を論ずるが、革とは何か、どうすることが、どんな方法と設計でやることが、国家革新するのか、さっぱり判らない。重臣を殺害したり、クーデターをやることは、もはや言語道断であるばかりでなく、とても危険でもあり、愚劣でさえある。しかし軍人に対して、理論的にも、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、革新出来るというビジョンものを、よく得心させる必要があると、永田鉄山は示唆していた。やがて逆に、統制派であるも開戦派であった東條英機首相が1941年12月8日に、日本軍はイギリス軍との間で太平洋戦争に突入し、真珠湾攻撃して間もなくアメリカ軍との間に太平洋戦争が勃発した。
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