日本軍の工兵隊が、南京虐殺された中国人の死体に釣鉤に引っ掛けて下関川の沖合から揚子江に流した。犠牲者の死体は、船の脇に吊るされた。下関川に死体を引きずり込み浮かせた。1937年11月13日に南京に侵攻した日本軍は、中国の兵士と民間人を下関川に強制連行して、機関銃で銃殺した。南京虐殺はその約2日間にかけて執行されて、揚子江のほとりの無福山付近で行われた。死体にはガソリンをかけて焼却された。多くの死体はその後に揚子江に投げ込まれた。
朝日新聞の特派員は1937年12月13日と12月14日の両日に、第13師団歩兵第65連隊が長江南岸の武龍山・無風山の砲台付近で、中国軍兵士約14,777人を捕虜にしたと報じた。その後に続報はなく、何十年もの間、中国人捕虜がどうなったのかは不明であった。日本側では、半数が釈放され、約4分の1が逃亡し、残りは暴動を起こして殺された説があった。中国人捕虜は全員、揚子江のほとりに引きずり込まれて処刑された説もあった。
1980年代後半に、日本の化学工場勤務の小野賢二が、約200人ほどの戦争体験者にインタビューし、約24冊の戦時中の日記などの史料を集めて南京事件を調査した。その調査から1998年に、12月14日以降に捕虜になった中国人約1万5千人と、約2千人から約3千人の捕虜から、日本軍の命令で虐殺されたことを示唆した。中国人捕虜の大量処刑は、南京虐殺の中でも最も規模の大きい。
日本軍一等兵の[1937年11月25日の日記】宿舎に着くと、大きな豚を2匹殺した。そして今、それを食べています。戦争は楽しいですね。お酒が好きな人は好きなだけ飲める。ここ数日、ようやく天気が良くなってきたので、心も楽になってきた。【12月16日の日記】数日前に捕らえた捕虜の一部、約5,000人を揚子江のほとりに連れて行き、機関銃で刈り殺した。その後、満足するまで銃剣で刺した。おそらく30数人の憎い中国兵を銃剣で刺しただろう。死体の山に登って銃剣で刺すことで、私は勇気を得て、鬼にも勝てるような気がした。彼らのうめき声を聞きながら、全力で刺していった。年寄りも子供もいた。全部殺した。刀を借りて首を切ったこともある。今までに経験したことのない珍しい体験でした。日本軍少尉の[12月16日の日記】捕虜は17,025人。夕方に軍令を受け、そのうちの3分の1を土手に連れ出し、第1大隊が射殺した。[12月17日の日記】夜、10,000人以上の残りの捕虜を処刑するために5人の兵士を送り出した。
日本に上陸する前に捨てたと言っていた元日本軍兵士が、戦時中の日記を公開してくれた。中国人を虐殺したのは、ほとんどが日本市民の下士官や一般兵であった。上司の命令は絶対的なものであり、良心の呵責に苛まれている。(南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記、大月出版、1996年)
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