広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。ガラス破片によって、特有な動脈瘤を発生した。その他に軽度の原爆症を合併した。小さな腫瘤のように浮き出て盛り上がって触ると可動性を伴った。猛烈な爆風によってガラスがこまかく砕くだけて、ガラス破片が無数に身体に突き刺さった。さまざまな大きさのガラスの破片が、強烈な爆風に煽られて体に突き刺さって、体の中に深く入り込んだ。その他に、木片や鉄の破片なども突き刺さった。ガラスの破片と火傷で血だらけになった。被爆後に生涯にわたりガラスの破片が残存した被爆者もいた。
長崎原子爆弾は、長崎医科大学と大村海軍病院により約8,000人にも及ぶ被爆者の被害状況が、1945年10月から12月に調査された。爆風が人体に加えた二次的に起った外傷では、最も多かったのはガラス傷(約60%)で、小さな破片が無数に身体体にささり、大きなガラス破片で末梢神経を切断したり、頭蓋骨を貫いて脳内に入った被爆者もいた。次に多かったのは打撲傷(約20%)や挫創(約13%)で、幸に骨折は少なかった(約2%)が、その中には腰推骨折を起して、起きれない被爆者もいた。
原子爆弾が炸裂した爆風は、大地震のような震動を生じ、家が倒れた。一抱えもある大木が折れ、あるいは根こそぎ倒れた。病院の煙突は斜めに曲り、長崎医科大学正門の門柱は幅約1m, 高さ約1.5mで土台はコンクリートで固めるも、約30度ほど傾いて斜めの傾斜になった。長崎市内ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、圧壊されて飴のように曲った。墓石が全部倒れた。約40cm程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれて、甘藷が地面に露出した。山王神社の有名な二の鳥居が、爆風により1本足鳥居が残存した。窓のガラスは約10km以上の遠い所までも粉砕して割れ、瓦も飛び散った。
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