長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて、ふとんの中で毛布をかけて床に横たわっていた。生き残った被爆者には、外傷や放射線障害を伴っていた。
1945年8月30日に、日本に最初に上陸したアメリカ人調査チームは、マンハッタン計画の科学者たちであった。広島と長崎に行き、原子爆弾の多方面を評価した。残存する放射能を測定し、原爆の影響を調査して、将来の核開発に役立てようとした。死傷者数の推定もその一つであった。導き出された数字が混乱の大きくなった原因の一つは、日本人自身が何の情報も正確なデータも持っていなかった。どちらの都市の人口も事前に知れなかった。何人の人が生き延びたか、何人が街に戻ってきたか、ほとんど知る方法がなかった。死亡率などの数字を入手するはずの医療班を率いていたが、推測以上の決定的な数字を得れなかった。調査2ヶ月目の終わり、10月初めに得られた唯一の実際の事実は、長崎で4万体の焼却と火葬を記録したことだった。焼け跡に埋もれたり、焼かれたりして、さらに2万から3万はあったと推定された。
広島原子爆弾のデータも同様に不十分で、死亡率や死傷者の総数は正確な数字を出す方法はなかった。推測以上と言えるような明確な数字を出せなかった。1946年に出されたマンハッタン計画の報告書は、民間施設の広範囲な破壊、爆発直後の完全な混乱状態、被爆前の実際の人口に関する不確かさのために、調査を行うことは非常に困難であった。広島では、被爆前の人口25万5千人のうち6万6千人が死亡し、6万9千人が負傷したと推定した。長崎原子爆弾では、空襲前の人口19万5千人のうち、死者3万9千人、負傷者2万5千人であった。長崎原子爆弾の数字は低いと考えていた。
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