広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年が、被爆地の近くを歩いた母親はほとんど異常がないのに、二次放射能による急性髄質白血病で12歳で死亡した。梶山猛(44歳)の長男の健二(11歳)は、豊島小学校の6年生だった。原爆投下の翌日の8月7日から6日間に、妊娠5ヵ月の母親美富代さん(41歳)は、相生橋、大手町、吉島町などの被爆地周辺を歩き回り、叔母を探していた。母は一時髪が抜けて、吐き気や下痢を伴って、1946年1月4日に健二が誕生した。
健二が11歳の1956年11月頃から体重が減少した。1956年の5月頃から、左膝下に腫瘤ができ、腫物が多発して、38.9度以上の熱が続き、やせ細っていった。手足の痛みやだるさを訴えて、1957年5月23日に広島大学病院に入院した。原爆による急性髄性白血病と診断されて、原田病院に入院して治療を受けて、6月5日に広島原爆病院に転院した。白血球数は301(通常は6000~8000)、赤血球数は172万(通常は400万~450万)、ヘモグロビンは36%(通常は95~100%)と、深刻な血球減少を示した。肝臓と膵臓が腫れて、髄質性白血病の末期で、終末の貧血であった。広島原爆病院では、直接被爆していない母親の子供が白血病になったのは初めであった。布団から飛び出した手足は、やせ細り骨と皮だけだった。お腹が痛くなり、最後には全身の骨や腸が痛くなって、とても苦しんだ。全く食欲がなかった。健二は6月21日朝4時5分に死亡した。
原爆病の健二は、死という絶対的な運命を目前にして、「僕を撮影してください......」突然か細い声で言った。父も「写真を撮ってください」と言った。家族に枕元に集まっ撮影した。天井に吊るされた千羽鶴や歌仙も撮影した。午後4時頃、体温と脈拍を測りに来た看護師を撮影した。6月21日午前7時には広島原爆病院で遺体を安置する部屋に健二はいた。被爆者の遺体は、死後数時間以内に解剖されて、すべての資料は比治山のABCCに運ばれた。健二は、休憩室の床に敷いた布団の上で、白いガーゼで顔を覆っていた。
神棚の前から健二の名前を呼んでも、写真から声はなかった。恐ろしい放射能は親愛なる健二の骨の髄まで食い込み、胃まで食い込み、地獄の苦しみへと陥って、約一年間にわたり残酷に苦悩した。神棚の前に座って、神仏に平和と原水爆の廃絶を祈った。宇品港から船で約3時間にある豊島にて、健二の墓は瀬戸内海を一望できる高台で「釈慈海」と書かれた。仏壇の線香に火をつけて、心から健二の冥福を祈った。原爆禁止運動にも協力してください。(Domon Ken)
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