満州の奉天派の軍閥であった張作霖が1926年12月に北京政府の代表となり、1927年3月から北京市内の共産主義者を弾圧と粛清するために、虐待と虐殺をした。斬首して断頭した後に、電信柱に吊り下げた頭部を民衆に公開した。北京の群衆も、断頭された頭部を興味と恐怖にかられて見上げた。共産主義者の弾圧と粛清のために、木製の首かせをはめられて、公開のさらし首にされた。張作霖は3月3日に、過激化する共産主義を防ぐ為に国民革命軍と戦闘する意思を国内外に示した。国民党軍も、1927年4月に上海で共産党を弾圧と粛清して、1927年7月からは武漢にても共産党の弾圧と粛清をした。
1927年4月12日に中華民国にて蒋介石の国民党軍が、労働組合連合である上海総工会の武装労働者が、3月22日に上海で起こした暴動に対して、労働者と共産党員を粛清する四・一二反革命政変と呼称される上海クーデターを起こした。1927年3月下旬に、上海では第3次労働者武装蜂起が勃発した後に、国民党軍は上海に入り、治安上有利な地域を占領した。その後に、蒋介石は上海に赴き、4月上旬に反共秘密会議を開き、直ちに暴力的手段で共産党の粛清を行うことを決定して、共謀して反革命クーデターを準備した。4月11日の夜に、蒋介石は密かに占領した全省にて共産党を粛清せよと命じた。4月12日の早朝に、蒋介石から買収された武装青年団が労働者を装って、各地に駐屯する労働者のストライキを襲撃して対抗した。4月13日の朝、上海総工会は、閘北の青雲路広場で約10万人の労働者を集めて大集会を開いた。労働者の行列が宝山路に達したところで、国民党軍に虐待と虐殺されて、約100人以上が死亡して、無数の人々が負傷した。その後も、蒋介石の国民党軍は共産主義者や革命的大衆を逮捕して、虐殺し続けた。わずか約3日間で、約300人以上が虐殺されて、約500人以上が逮捕されて、約5,000人以上が行方不明になった。上海クーデターにより、共産党と労働者の粛清につながり、統一された南京国民政府が樹立された。
1928年4月から蒋介石は中国国民党軍を率いて、上海クーデターで頓挫していた北京の軍閥政権を打倒する北伐を再開した。1928年5月の山東省済南で日本軍に武力衝突した。国民党軍は、済南を迂回して北上して、北伐を継続した。6月4日に満州奉天派であった北京政府の張作霖政権は撃破されて、北京から張作霖が逃亡中に日本軍により爆殺された。中国国民党軍は6月15日に北京を占領して、北京政府は消滅して、中国国民党は中国統一を宣言した。
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