1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、仁科芳雄が作った理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。さらに大阪大学の1台と京都大学の1台も大阪湾に廃棄した。太平洋戦争中の日本では、ウランがなく、資源も乏しく原子爆弾の開発は不可能であった。1943年3日に海軍委員会は、アメリカが原子爆弾を製造できる可能性は低いと報告した。1943年5月から、陸軍が主催するNI計画が開始された。ウラン鉱石からウラン235の分離、ガス拡散法、加熱実験、フッ化エチレン結晶、サイクロトロンに中性子の放射、1945年4月13日にアメリカ軍の爆撃機が東京を空襲して、理科研の49号棟が突然炎上して破壊され、日本の原爆開発は終わりを告げた。
広島の上空で強力な新型爆弾が炸裂したのは1945年8月6日午前8時15分頃のことであった。物理学者などの間では原子爆弾の可能性が取りざたされていた。政府の要請で8月9日に仁科芳雄が調査のために広島に入った。日赤病院に残っていた未使用レントゲン写真乾板や電柱の碍子、動物などの骨、といった試料を東京に持ち帰って分析した。写真乾板の感光や硫黄・燐の放射化確認から、8月10日に新型爆弾は原子爆弾であったと大本営に報告された。日本政府は8月14日に国民に知らせた。010年8月9日のことである。「広島に原爆」と埼玉県川越市の同盟通信が、新型版弾の正体を説明する放送を傍受して、通信社分室が政府に報告していた。
全ての物質が原子からできるも、量子力学が原子が安定しているのかを解いた。ラザフォードは1911年にキュリー夫人が発見したポロニウムの放射性同位体(RI:Radio Isotope)が発するアルファ線を金ぱくにあてて金原子の原子核の存在を実証した。しかし、原子核をより詳しく観察したり、十分な量のRIを製造するには、天然のRIから得られる放射線の強度では弱すぎた。ラザフォードは標的の原子核を破壊できるエネルギーまで人工的に原子核を加速する装置ー加速器の実現を強く訴えた。1930年代初頭に、加速器となったサイクロトロン、静電圧加速器、リニアックまたは線形加速器が新設された。特にサイクロトロン(円形加速度)は大強度の陽子や重陽子ビームを発生でき、はじめて強い放射能をもつ人工RIが製造できた。湯川秀樹が、1934年に電子よりはるかに重く、核の強い力を伝える中間子を予言した。日本では1937年に、仁科芳雄が世界で第2番目のサイクロトロンを理化学研究所に建造した。理化学研究所は、第1号サイクロトロン以来、第2号は太平洋戦争中の1943年に建造さそれた。1945年8月15日に終戦して、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約が締結されて1952年4月28日に発効された。その後に日本が正式に独立した後の1952年に第3号から、理研は合計で6台のサイクロトロンを建造した。
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