ニコラエフスク(尼港)事件により、赤軍パルチザンは、1920年3月には在留の日本人の手足を針金で縛って虐殺した。虐殺で弾薬が不足するために、犠牲者を銃剣で刺して、アムール川の氷の下にある穴に突き込んだ処刑もあった。町の住民数千人がその方法や他の処刑方法で虐殺された。殺害された日本人の死体は、コシュカ岬の向かいにあるアムールの氷の上に持ち出され、膨大な死体は山積みにされた。男性117人と女性11人がいた日本領事館は、砲弾により火刑で虐殺された。
ロシア革命後のロシア内戦期、1920年の春から夏にかけて、シベリアのアムール川河口の小都市であるニコラエフスク(尼港)で虐殺事件が勃発した。赤軍パルチザンによって占領された町では、1920年5月23日から31日までに約6,000人の住民が虐殺されて、略奪された建物はことごとく破壊され、廃墟となった。犠牲者はロシア人ばかりではなく、日本人居留民と日本軍守備隊およそ約700名余りが虐殺された。赤軍パルチザンとロシア住民の犠牲者のデータは不詳である。
赤軍パルチザンの約4,300人が、1920年2月にニコラエフスクを包囲した。日本人は3月11日から12日の夜に、警告なしで突然に赤軍パルチザンの本部に発砲と砲撃をした。赤軍パルチザンの反撃を受けて、避難した日本軍は3月15日までに全滅した。日本軍が援軍を送った5月までに総人口の約半分に相当する約6000人の住人を無差別に虐殺した。さらに駐留日本軍兵士約684人、日本人住民約292人、日本領事約5人も虐殺に巻き込まれた。4月4日から日本軍が攻撃すると、赤軍パルチザンはニコラエフスク市街を焼き払って撤退した。対抗した日本軍は1918年8月からのシベリア出兵を延長する口実となった。ニコラエフスク事件で、日本軍は1920年4月22日にサハリンを占領した。1921年11月のワシントン会議から国際的圧力で、1921年10月にはシベリアから撤退した。1925年のソ連対日参戦の調印で、サハリン北部からの撤退した。
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