太平洋戦争のニューギリア戦いでブナ・ゴナ地区にて、1942年12月16日に日本軍兵士が、パブアサ戦場で自殺するために縄を身体に巻きつけたままで死亡していた。ブナ地区とゴナ地区での日本軍兵士は、全員が死ぬまで戦闘する玉砕の戦場となった。日本軍兵士は死ぬまで抵抗をやめることなく、そのために連合軍は多くの損害を出しつつあり。日本軍側が完全にゼロになるまでは勝負はつかぬ様相を呈した。厳しい戦闘に遭遇して、地形、重火器の不足、補給物資の不足によって、困難な状況はに落った。死地で戦う日本軍によって、11月19日から戦況が悪化して、後2週間にわたり攻防を繰り返した連合国軍側はほとんど進展せず、死傷者の増加にも直面した。
ブナで見つかった日本軍兵士の日記には、12月1日から「過去4日間、援軍を待っていた」「私の体はニューギニアに埋葬され、ブナの土壌の肥料になる」「今、私たちは死を待つだけです。」と悲壮感に満ちた。オーストラリア軍兵士は、「原始的な沼地、じめじめとした静かな雑草、大量の犠牲者、日本軍の戦意の固さ、日本軍兵士はとって死が唯一の結末であった。恐怖の戦いを、不本意ながらも戦争中の最も過酷な悪夢を思い出した。」とある。1942年12月5日から、デュロパ農園から連合軍の攻撃が始まり、木の狙撃兵、爆発物を持った歩兵、木の切り株を掃討した。連合軍は迫撃砲による激しい砲撃を受けて、ブナ村を占領した。12月15日から18日までに、アメリカ大隊軍は、前線を越えて日本軍に対して侵攻した。オーストラリア軍も約3分の1が死傷者になった。ブナだけでも、約2,000人の日本軍のうち、約1,450人が戦死あるいは行方不明となり、ジャングルや海でさらに多数が戦死した。連合国兵士の約620人が死亡して、アメリカ軍は353人、オーストラリア軍は267人であり、さらに約2,065人が戦傷し、約132人が行方不明となった。
日本軍は、ブナ地区に1942年7月21日に日本軍が上陸していた。オーストラリア軍と日本軍の連合軍は、ニューギニア島のブナの南東約16kmのオロ湾に1942年11月16日に上陸した。その後11月中旬から、オーストラリア軍とアメリカ軍がブナ地区とゴナ地区へ向けて侵攻した。ゴナ地区の付近のバサブア地区において日本軍と激突した。連合軍は攻勢を強めて、12月8日にパサブア地区の日本軍兵士は、全員が玉砕して戦死した。さらに1943年1月2日には、連合軍によりブナ地区の日本軍兵士も全員が戦死した。最後に残ったブナ地区とゴナ地区の中間のギルワの日本軍兵士は、玉砕を避けてクムシ河口に撤退した。南海支隊のブナ地区に上陸以降の一連の地上戦闘により、参戦した日本軍兵士約1万1,000名のうち約7,600人が戦死あるいは戦病死した。ブナ、ゴナ、ギルワ地区の戦いにて、連合軍による日本軍兵士の捕虜数はわずか約250人程度の残存兵となった。ブナ・ゴナの戦いで、連合軍側は約1,991人が死亡して、約12,300人が戦傷あるいは戦病の犠牲を伴った。日本軍は、約4,000人が戦死して、約3,000人が病死し、約1,200が戦傷して、約250人が捕獲された。
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