日中戦争にて、湖南省で中国民間人が日本軍に虐殺された。身体を縄で縛って、罪人の罪状を記した木札を付けて殺害された。アグネス・スメドリー(Agnes Smedley)の『中国の歌ごえ(Battle Hymn of China,Jan.1943)』に写真が掲載されて、1929年から1941年までの日本軍の中国侵略の歴史が掲載された。日中戦争期を契機に、中国共産党が国際世論工作を展開した。中国共産党は日中戦争勃発前の1936年6月から10月に,アメリカ人記者のエドガー・スノー(Edgar Snow)をソビエト地区に招いて取材に応じた。スノーは,毛沢東を初めとする共産党の首脳を取材し『中国の赤い星,Oct.1937』をイギリスで発表して、反響は大きく中国共産党が世界に認知される契機となった。
日本軍により、江南殲滅作戦(1943年5月5日から6月10日)の第一期に、湖南省北東部にある洞庭湖の北辺に位置する廠窖で引き起こされた事件が廠窖大虐殺(廠窖惨案; Changjiao massacre)が勃発した。1943年5月9日から11日までの3日間で中国軍兵士と民間人の約30,000人余が殺害された。その犠牲者の内訳は、中国軍敗残兵約5,000人、地元住民約7,000人、近郊住民約6,000人、他地域からの避難民約12,000人に及んだ。その他に、負傷者は約3,000人、焼失家屋約3,000、焼失舟艇約2,500艘、強姦された女性は約2,000人人以上などの被害が発生した。大虐殺事件現場の湖南省益陽市南県廠窖鎮には、避難民が乗る多数の船舶が爆撃され大量の犠牲者の血で水が赤く染まった血水河遺跡や、大量の遺骨が発見された千人坑遺跡などを遺跡としている。外国の駐在機関や報道機関もなく、住民の目撃証言か被害者の身体に残る傷跡と記憶、地中に埋まった犠牲者の遺骨が事件を証明する手段しかない。中国考古学者らによる遺骨の発掘調査は今も継続しはている。
湖南省廠窖で発生した廠窖虐殺事件について、日本側史料をもとに検証した。戦後に編纂された作戦部隊の部隊史によると、廠窖事件の起きた期間、日本軍機による空襲、敗残兵の掃討、軍服を脱ぎ便衣となった中国兵との市街戦、民間船の焼却など、事件生存者の証言と符合する記述は散見された。しかし、中国側が主張する死者約3万人を証明まで至らなかった。廠窖事件で日本軍の暴行は資料的裏づけが取れるが、死者数は歴史史料上では確定できない。
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