広島赤十字病院は、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下された直後から救護活動を実施した。外来受診に母親の荷車で通っていた若い女性(陸田さん)は、爆心地の南1.7kmの南大橋で被爆した。顔面から上腕にかけたや火傷を被爆しいた。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となり、被爆者は並んで火傷の治療を次々に受けた。医師は診察して火傷の患部にガーゼ処置などをした。看護婦は、ガードを渡したり、ヘラで火傷部に軟膏を塗って、包帯を巻く救護をした。
1945年10月18日にアメリカ進駐軍の医療等原爆患者調査のために、広島日赤病院に立ち寄り、記録映画を撮影した。広島原子爆弾が炸裂してから、約1月後の9月頃から、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の監督後援のもとに、アメリカ戦略爆撃調査団の映画計画に参画した日本映画社によって原爆被災記録映画の撮影が9月23日から行われた。旧日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会の研究を日本映画社が撮影した。その途上で、それらはアメリカ軍によって全てが接収され所有権はアメリカ軍に移管された。12月18日にGHQにより原子爆弾に関する全てのフィルムと原爆の影響(Effect)記録映画が接収された。1946年5月16日にビキニ核実験前に価値ある広島長崎フィルムがワシントンに移管されたことが公表された。
爆心地から南西約1.5kmの広島日赤病院は被爆して1945年9月頃から建物の修復工事をするも、爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられて、窓ガラスは砕くだけ散ったままであった。広島日赤病院の病室の窓際から、壊滅した広島市内を撮影した。10月25日にも広島市の南方から大勢の被爆者が広島日赤病院に入所した。被爆して収容された子どものウメキ声で周囲の入院患者の一部は入眠困難となった。10月26日には被爆した子どものウメキ声が、さらに強烈となり、とても可哀想であった。広島赤十字病院は、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てで焼失は免れた。しかし鉄の窓枠は破壊されガラスは飛散した。内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れた。
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