ガダルカナルの戦いで、日本軍の前線指揮所は、コカンボナ海岸に近い大きなガジュマルの木の幹の中にできた洞窟の中に置かれた。その指揮所にアメリカ軍の砲弾が直撃した。日本軍兵士は、入り口から半身を乗り出した地点で爆死した。その死体には、直後から蝿が群がり、蛆虫が湧いて、悪臭がして腐敗していた。ガジュマルの中の前線指揮所の洞窟の中には、枕、敷布団、鍋、端、衣服などが散乱した。周囲には、レースの縁のテーブルクロスも残存していた。ガジュマルは、全体的に楕円形の葉を持つ熱帯性の大木で、熱帯雨林、川縁、海岸、沼地、マングローブなどに生息する。
1942年秋にガダルカナル島のマタニカウ川の戦いが勃発した。アメリカ軍と日本軍が、甚大な犠牲を伴う猛烈な攻防戦となった。日本軍はヘンダーソン飛行場を攻略する陣地を築こうとした。アメリカ軍は、ヘンダーソン飛行場の周囲を十分に拡張して、日本軍が同飛行場を攻撃できないようにした。
日本軍は1942年10月初旬に、アメリカ軍にマタニカウ川右岸付近で急襲さてれ、大損害を被ってマタニカウ左岸に撤退した。アメリカ軍はさらに11月1日に、マタニカウ川の数箇所を渡河して左岸に侵攻した。海岸沿いに侵攻して、日本軍をコカンボナ付近まで打撃した。その後アメリカ軍の主力部隊がマタニカウ川西岸で攻防した。兵力が増大したアメリカ軍は、1943年1月10日以降に猛撃して、飢餓に苦しむ日本軍をガダルカナル島の西方に追い詰めた。アメリカ軍は11月1日にマタニカウ川を渡り、11月2日に日本軍の残党を取り囲んだ。11月3日に、大砲、迫撃砲、半装軌車から日本軍に発砲した。日本軍は、約28人の将校と約201名の日本軍兵士が殺害され、別の日本軍部隊も全滅した。アメリカ軍は日本軍を突撃して追跡は、山岳地帯や前人未踏の地区に30日間つづけられ、約12回の戦闘で、約400人以上の日本軍兵士が殺害された。
ガダルカナル島の戦いは、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍との戦いで、日本軍兵力の逐次犠牲を繰り返し、飢餓と想像を絶する悪環境下で半年にわたり戦線をが継続した。弾丸と同じくらいジャングル戦争でマラリアの犠牲者となった。長期間にわたる精神的および肉体的な緊張、戦闘、不十分な食糧などに苦悩した。アメリカ軍に制空権を奪われ、ガダルカナル島に補給が絶たれて困窮の果てに、飢島と呼称された。
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