1936年12月31日に、満州国の統治中に約150人の中国人の政治犯ががチチハル(Qiqihar)の日本陸軍監獄から集団で脱出した。刑務所から脱出した中国人を捕獲した。その場で20人の中国人の囚人を射殺した。同時に約90人を逮捕して、血なまぐさい拷問と虐待を行った。彼ら全員は、1937年1月4日に満州国のチチハル市の北大営草原で処刑された。日本軍兵士が列をなして拳銃で中国人を凄惨に撃ち殺した。日本軍は血のにじむ取り締まりを行って、逃亡者20名をその場で射殺し、さらに90名を逮捕して、1932年1月4日にチチーハルの北逓草原で全員を射殺した。処刑された中国人の脱獄者の死体を北大営草原の荒野に並べた。裁判もない厳重処分の人権無視の処刑は、満州各地で頻発した。
1931年9月18日に、奉天市の北約8kmにある柳条溝で南満州鉄道の線路が爆破されて満州事変が勃発した。日本の関東軍は、満州の軍閥・張学良の仕業と見なし、本拠地である北戴に直ちに攻撃を開始した。9月19日には、関東軍は張学良の軍隊を撃退し、北戴を占領した。関東軍参謀グループが密かに仕組んだ。張学良は、租借権を放棄するなど、満州の日本人居住者を迫害した。反日教育から日本人への攻撃が相次ぎ、7月から9月までの間に約12件もの迫害事件が発生していた。
満州事変の直前に、特に万宝山事件と中村事件が頻発していた。満州の万宝山村に移住した朝鮮人農民約200人以上が灌漑用の溝を作って、1931年7月1日突然に、公安が工事中止を命じた。中国軍兵士が派遣され、農民の即時撤退と首謀者の逮捕を要求した。日本領事館は、1910年の韓国併合以来、日本の臣民である朝鮮人農民を守るために、武装した警察官を派遣し、7月2日数千人の中国人暴徒を弾圧した。モンゴルへの旅行中の中村大尉と3人の従者が中国の正規軍に虐殺された。挑発事件だけでも、戦争を起こすほど深刻だった。関東軍は、頻発する反日抵抗に対して有効な対策を講じない政府への反発が誘因となった。
1931年当時、張学良の東北軍は、近代的な兵器を装備した2約5万人の大軍であったが、わずか約1万400人の関東軍に粉砕された。関東軍は、長春、吉林など南満州の主要都市を瞬く間に占領し、11月19日には北満州のチチハルを占領した。わずか2カ月の間に、1万人強の日本軍兵力と韓国軍の援軍で、広大な満州のすべての戦略拠点を占領した。
満州事変の勃発から9月24日に、奉天地方自治保存会(後に遼寧省地方保存会に改組)が設立された。9月27日には、ハルビン特別行政区平和保存委員会が設立された。9月28日には、遼寧省、吉林省、桃南地区が独立宣言を出した。満州各地で新国家建設の運動が活発化した。1932年2月には、「新国家建設のための全満州合同大会」が開催され、東北管理委員会が結成された。3月1日に、満州国は独立を宣言した。11月に天津から旅順に逃れた溥儀は、最高責任者に任命され、後に皇帝にもなった。
中国共産党の公式見解では、日中戦争は満州事変(1931年)に始まり、盧溝橋事件(1937年7月)、上海戦(1937年8月~11月)、支那事変(1937年~1941年)、大東亜戦争(1941年~1945年)を経て、「日中15年戦争」とされた。満州事変は1931年9月18日に始まり、11月19日のチチハル陥落をもって、満州東北三省の占領はほぼ完了した。1932年1月3日の済州島の陥落で戦いは終わり、3月には満州国が成立した。日本と中国国民政府との間で起きた武力衝突は、満州国の成立によって事実上終結し、1933年5月31日の塘沽休戦協定の締結によって正式に終結した。その後に、盧溝橋事件までは重要な武力衝突はなかった。
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